【今回の記事】

【記事の概要】
   知的障害がある15歳の少年が、入所施設を抜け出して死亡した事故をめぐり、施設側が将来働くことで得たであろう「逸失利益」をゼロとした慰謝料を提示したことは「命の差別だ」として、少年の両親が施設側に対し、「逸失利益」を含めた損害賠償を求める裁判を起こすことが分かった。
   知的障害があり、都内の施設に入所していた松沢和真さんは、2015年、鍵があいていた玄関から抜け出して行方不明となり、その後、山の中で死亡しているのが見つかった
   両親によると、損害賠償の交渉の中で、施設側は、慰謝料として2000万円を提示したが、和真さんが将来働くことで得られたであろう「逸失利益」については、金額をゼロとしていた。
   松沢正美さん「息子の将来の価値はないと言われることは、きわめて憤りを感じております

【感想】
   なんとも失礼な施設側の提示である。亡くなった和真さんが将来働くことで得られたであろう利益がゼロとは、「命の差別」と言われても仕方がない。「息子の将来の価値はない」と言われたも同然の親御さんの憤りは心中察するところである。

   知的障害の子供と言えど、子どもがどれだけ素晴らしい可能性を秘めているか、この施設側の人間は全く分かっていないのだ。
   私事で恐縮ではあるが、私の担任していた特別支援学級に在籍していた知的障害の男の子は、私達学級担任以上に物事をしっかり覚えていて、忘れている私達にいつも教えてくれていた。何度ピンチを救われたか分からない。また、ある大雨の日のこと、その男の子が「先生大変です!廊下の天井から雨もりがしています!」と教えに来てくれた。急いでその場に行ってみると、既に何枚もの雑巾が床に敷かれていて応急処置を行った跡が見られた。私はその男の子に、「この雑巾は誰先生が敷いてくれたの?」と聞くと、何と「ぼくがやりました」との返事!その子は、雨漏りを発見した瞬間、先生に報告するよりも、まず自分でできる応急処置を優先したのである。何という素晴らしい判断、そして実行力!私はその子の生活の様子を見ていて、「この子は知的の遅れはあるものの、将来何らかの仕事につき、必ずや人の役に立てる人間になるだろう」と思ったものである。
   
   知的な遅れのある子供でも、このように素晴らしい働きができるのである。落ちているゴミを発見しても他人任せにして自分は何もしない健常児も多い中で、その子供は「いい高校やいい大学に入るだけが人生ではない」という事を私たちに教えてくれる。
   物事に一生懸命取り組める子なら、自分にできる仕事を与えられれば、必ず何らかの成果を出せるのである。子供たちが秘めている可能性を大人が見出さずして、どうしてこれからの世代を子供たちに託すことが出来るだろうか。可能性を持たない子供など、この世に1人としていないのである。