多くの犠牲者を出した東日本大震災。あの日、津波に遭遇した石巻市立大川小学校でも多くの児童達が犠牲になりました。




 私はこの日が来るたびに、津波災害から奇跡的に生還したある少年の体験談を思い出し、私自身も教師だった頃の自分に対して自責の念を抱きます。

   2016-10-30作成記事ですが、改めてご覧ください。


【今回の記事】
生存者14歳少年が証言する3・11大川小の過ち

【記事の概要】
   自分の体験を震災直後から語り続けている子供がいる。長女の未捺(みな)ちゃん(享年9)を亡くした只野英昭さん(42)の長男、哲也くん(14)だ。あの日、津波に遭遇し奇跡的に生還した児童4人のうちの1人である。

   ’11年3月11日午後2時46分ごろ、「帰りの会」が行われていた小5の哲也くんの教室を強い揺れが襲った。机の下に避難しながら、哲也くんは祖父の弘さん(享年67)の口ぐせを思い出していた。「地震来たら、山さ逃げろよ」。

その後、担任とともに校庭へ避難。「下級生には、吐いている子もいて。先生たちはたまって『どうする、どうする』ってなってて」。児童たちを校庭に座らせたまま、時間は過ぎていく。「早く山に行ったほうがいいんじゃないか。先生、何やってるのかな。先生が言わなきゃ、移動できないしな」。
「それから、50分くらいだっけ、けっこう時間がたって、『じゃあ、移動しましょう』ってなって」。河北総合支所の職員の「松原を津波が越えてきました」という声を聞いて、教師たちは山ではなく、河川堤防近くの「三角地帯」へと子供らを誘導し始めた。この、結果的に危険な避難先を選んだ理由についても、第三者検証委員会の最終報告書(今年の2月23日)に明確な記述はない。
おい(俺)は、てっきり山に行くと思っていたけど、もう進んでいたので、『まっ、いいか』って。公民館の前あたりに来たとき教頭先生が戻ってきて、『津波が来たので、早く移動してください』と言われて、小走りで山沿いの道を、民家の間を抜けて県道へ出ようとした。そのとき、波がこぼれてくるのが見えて。家が爆発したと思って、砂煙がパーッと上って、なんだかわかんないけど、『逃げなきゃ』と思って、逆戻りしていた
パニック状態で周囲まで気遣う余裕はなかったと、素直に打ち明ける。「波が来たときは、腰を抜かして動けない人もいたけど、自分が助かりたいというのしかなくて、走っていって。後ろのみんなは『なんで、戻ってきたんだよ』という感じで見ていたけど、ジェット機の爆音のような音のせいで、口をパクパクしているのしかわからず、でも、おいは上っていって」

   この後、哲也くんは津波がかぶった斜面の土に半分ほど埋まっていたところを奇跡的に助けだされた。

【感想】
「教師の言う通りに行動した子ども達が命を落とし、避難する人の流れを逆らって戻った少年が助かった。」
この事実は、私たちに何を訴えているのでしょうか?
  
   私は、この哲也君の行動を知り、先生の言う通りに行動して亡くなった子ども達は、大川小学校の教師達に限らず、私たち教師によって殺されたのではないかという自責の念に駆られました
   ある報道によると、実は教師達に、裏山に逃げることを進言した子どもがいたそうです。遺族の方もその事を強く訴えていました。しかし、結果的にこの進言は受け入れられることはありませんでした。
   私達教師は、普段から、自分のいう通りにさせなければいけない子どもに勝手なことはさせてはいけない」という雰囲気を無意識のうちに教室の中につくりだしがちです。ましてや、今回のように、命のかかったギリギリの場面になればなるほど、「子どもの意見を聞く時ではない」という意識が強くなるのかもしれません。
   私たちは、普段から子どもの発言を尊重する意識を持つ努力をしなければなりません。たとえ教師の意に反した発言をした子どもでも、その発言を笑顔でうなずきながら聞き、どんな発言でも許される雰囲気を教室の中に作っておく。そうすれば、津波警報が出され先生達が対応に迷っている時に、「先生!死んだ僕のおじいちゃんが『地震来たら、山さ逃げろよ』といつも言っていました!」と子どもが迷いなく発言でき、先人から言い伝えられてきた知恵を今に活かすこともできたのではないでしょうか。たとえ子どもであろうがなかろうが、先人の知恵を発言する人間の意見は何よりも優先されるべきものであるはずです。

   いずれにせよ、やはりこのような大災害を風化させることなく、後世に伝えていくことは大切です。何故なら、事実、おじいちゃんは亡くなっても愛する孫を守ることができたからです。

(最後に。今回の投稿は、あくまでこれからの私達教師の自戒の念を込めて書いたものであり、当然のことながら、亡くなられた先生方の判断を非難するものではないことをご理解頂ければ幸いです。)