神奈川県相模原の障害者施設殺傷事件。戦後希に見る残虐な事件となってしまった。
   加害者となった植松容疑者は、もともとは心の優しい青年であったようであるが、大学時代とこの障害者施設に勤務していた時に、それぞれ脱法ハーブと大麻に手を染めていた。そしてそれらと同時期に、急に障害者を差別する発言をするなど、いずれも言動に著しい変化が見られている。おそらく脱法ハーブや大麻による影響によるものだと思われる。
   では、なぜ植松容疑者は脱法ハーブや大麻に手を染めてしまったのだろうか。

   まず、大学時代の脱法ハーブについてであるが、大学と言う世界は、高校までの生活と違い、明確な時間割と言うものが設定されておらず、自分自身でその枠組みを考えなければいけない。また、脱法ハーブに手を出さざるを得なかった彼は、ストレスを癒す「安全基地」としての愛着対象を持っていなかったと考えられる。つまり精神科医の岡田氏の言うところの“不安定型の愛着スタイル”を持つ彼にとっては、人間関係さえも全て自分の決断に委ねられる生活の中で、自分から進んで愛着の対象(心から信頼できる他者)を見つけることは容易なことではない愛着対象を持てないという事は、学生たちにとっては不安感を一層掻き立てられることになる。また、ただでさえ自分の時間が豊富にある大学生生活である。その中で、愛着対象を持てない寂しさをかき消すかのようにインターネットにはまり、様々な情報に接する大学生も多いだろう。つまり、安心を得られない精神状態が、インターネットを通じて過激な思想や違法な薬物に手を染めるきっかけになることも十分考えられる。そのいい例が、ダッカ襲撃事件である。加害者になった若者たちは、インターネットを通じてISに関する情報にふれて感化されていったのであった。

   次に、現在の障害者施設に勤め始めてからのてからの大麻の使用についてであるが、前回の記事によると、植松容疑者は、園の仕事も、当初は「施設の入所者がかわいい」と意欲的だった。「自分が世話をすることによって、入所者が喜んでくれる、その笑顔を見ていると自分も嬉しい。」そのように感じていた時に、実はその入所者との間に愛着(愛の絆)を形成していたと思われる。しかし、約2年前から「思い通りにいかない」「大変だ」とこぼすようになった。彼の言動からおそらく重複障害者との関わり方でつまづいたのではないかと推測されるが、これによって、植松容疑者は、施設の入所者との“愛の絆”を失ってしまったのではないだろうか。入所者との愛の絆を失った植松容疑者は、この時点で、家族とも離れて暮らしており、自分が活動する生活圏の中に“愛の絆”を結ぶ愛着対象となる人がだれもいなくなったのかもしれない。もしも植松容疑者が家族なり同僚なり、愛着を形成できる相手がいれば、自分の悩みやストレスを相談し、その「安全基地」で心を癒すことができていたはずである。そうしていれば、重複障害者との問題もいくらかでも改善できていたのではないだろうか。ちなみに、愛着の対象を失った人間は、それに代わる手っ取り早く手に入るものでバランスを取ろうとする。これは薬物中毒の患者に見られる典型的なパターンである。植松容疑者は、失った愛着に代わって大麻という代用品を手にしてしまったのではないだろうか。
   
   つまるところ、今の社会には、膨大な不安感やストレスを緩和してくれる手立てが欠落しているのである。そうならないためには、どんな環境にあっても臆せず自分の悩みを相談できる「安全基地」としての他者を持つ“安定型の愛着スタイル”の人間であることが求められるのである。精神科医の岡田氏によれば、安定型の愛着スタイルか不安定型の愛着スタイルか、どちらの人間に育つかは、その人間の乳児期の育てられ方によるとされている。
   改めて、「臨界期」と呼ばれる0歳から1歳半の時期の養育の大切さを痛感する思いである。このことについては、本ブログの「人の一生を左右する乳幼児期の養育の大切さ」(http://s.ameblo.jp/stc408tokubetusien/entry-12166236151.html)をご参照いただきたい。そこに、まさに今回の事件を示唆するような記述がなされている。

   あるテレビ番組に出演したコメンテーターは「このような問題の解決のためには、何らかの“抜本的な改革”が必要である」と述べていた。日本全国で愛着形成に対する理解のもとに、「臨界期」に子どもに寄り添う養育を行うこと、それこそが抜本的な方法であると考える。