裕福な家庭の子どもが加害者になったダッカ襲撃事件から分かったことの二つ目、それは、この若者たちは“愛着対象”を持っていなかったということである。
   “愛着対象”とは、人が心から信頼している、その人にとっての「安全基地」として存在している他者のことである。赤ん坊であれば、「安全基地」は大抵の場合母親である。また、成長するに従って、愛着対象は親から学校の教師や友人へと移り変わっていく場合も多い。「この人と一緒にいると心が安らぐ」という他者である。その愛着対象がその人にとっての“憩いの場”なのである。人は溜まったストレスをそこで癒すのである。
   しかし、今回の襲撃事件に関わった若者たちは、インターネットでのISからの勧誘に心を惹かれた。それは、彼らは普段の生活の中で満足していなかった、不満を抱いていた、つまり、ストレスを溜め続けていた証拠である。彼らが“憩いの場”としての「安全基地」を持っていれば、そこでストレスを癒していたはずである。
   ダッカは世界有数のメガシティであり、都市圏の人工は世界第9位、60歳以上の人口比はわずか⒋7%だそうである。そうしたダッカで新たに問題となっているのが、急速な都市化や核家族化だそうである。過去に日本でも高度経済成長期における核家族化の急増とともに、“自己愛(自分を第一に考える考え方)”化や“脱愛着(人と心のつながりがない状態)”化が進んだように(本ブログ「愛着不全問題の始まりは、あの『金八先生』でも『腐ったミカン』として描かれた非行、校内暴力」参照)、ダッカでもメガシティであるが故に家族の繋がりが弱体化しているに違いない。そんな社会で育った若者が愛着対象を持てないでいるのも当然である。