行列の出来る法律相談所 6月8日放送より
バラエティー番組には出演しないことで有名ですが、
昨年縁引退をした元巨人エースの桑田真澄選手が清原選手へ向けた一言
「僕は彼にバッティングピッチャーを頼まれることがあれば
すぐにでも、飛んで行きたい思っています。
その時に、自分がちゃんと投げることが出来なければ
(引退したとはいえ)彼に対して失礼である。
だから、引退してからも現役の時のような
まっすぐ曲がるカーブが投げることが出来るように
今でも練習しています。」
清原選手からそのような依頼があったわけでも
ないのに・・・・
PL学園時代の相棒でもある清原が現役で頑張っていることへの
桑田から心からメッセージ。
さすが、プロですね。
日々の感動を忘れずに。
カリスマがゆえに
YOSHIKIの才能に惹かれて集まったXであり、スケジュールをはじめXの活動すべてはYOSHIKIを中心に動いていた。 メジャーデビューを夢見て頑張ってきたXであるが、メジャーデビューを果たし、レコード大賞新人賞受賞、武道館ライブ、紅白出演、史上初の東京ドーム3日間連続ライブと数々の記録を残してきたXであるが、YOSHIKIと他のメンバーと行き違いはすでに起きており、96年長年Xを支えてきたボーカルでもあり、YOSHIKIの幼なじみでもあるTOSHIの脱退へつながった。
なぜ、TOSHIは脱退したのだろうか?
当時、脱退したTOSHIに怒りすら感じた私には理解出来なかったことも10年経った今少し分かったような気がする。 そして、それを受け入れたYOSHIKIの気持ちも。
TOSHIのせいでもYOSHIKIのせいでも誰のせいでもない。
仕方のないことなんだと思う。
当時は学生だった私も今は社会人となり、小さいながらも会社経営をしている。
偶然にも、このブログを読んだ経営者の方がいたらきっと私と同じことを思うだろう。
Xというバンドは、YOSHIKIとTOSHIの2人から始まったバンドであり、デビュー以前何度もメンバーチェンジを繰り返していた。 YOSHIKIは当時から、同じようにライブ活動を続けていた他のバンドからも一目置かれるようなカリスマ性があったと思う。
そのカリスマ性に惹かれてメンバーが集まってくるが、デビュー前であるため、バンドを続けるためにはアルバイトなどをし、生計を立てながら続けなくてはならないほど決して楽なものではなかった。
カリスマと呼ばれる人間も、生まれたときからカリスマな奴なんて誰もいない。
カリスマ性のある人間が結果を残して、初めて真の「カリスマ」として周りに認められる。
メジャーデビュー前の当時のYOSHIKIなかったもの、それが「結果」であった。
多分、新しいメンバーを口説くときに「Xというバンドはこうなって、将来はこうで・・」みたいな夢を語ったと思う、
しかし、現実はなかなかうまくいかず、YOSHIKIの語る「夢」に魅せられて加入したメンバーも結果が出ない現状に疑問、不満、不安を感じ、衝突したりしXを去っていったのだろう。
人間の夢の多くは、誰かの夢に影響されたり、共感することによって「自らの夢」を作っていく。
その夢を作っていたのがYOSHIKIであり、共感して「自らの夢」を形成していたのが他のメンバーであると思う。
なので、メジャーデビューというひとつの夢を叶えたYOSHIKIには、同時に次なる夢を与え続けなくてはならないという強烈なプレッシャーをYOSHIKIに与えてしまったのではないだろうか?
他のメンバーからしたら、「いいじゃん夢叶えたし、ちょっとゆっくりしない?」
「YOSHIKI、なんでそんなに焦っているの?」
みたいな気持ちはきっとあったと思う。
それでも、TOSHIもそれを信じてYOSHIKIについていった。
そして、TOSHIも自ら気づかないうちに、「YOSHIKIの夢=TOSHIの夢」になっていた。
天才YOSHIKI
一部の楽曲以外、X-JAPANのすべての楽曲の作詞・作曲がYOSHIKIが手掛けていることからも分かるが、YOSHIKIの才能から生み出される楽曲なくしてはXは有り得ない。
しかし、20年前のXデビュー当するまえの音楽シーンはそうではなかったこと。
今では誰でも普通に使う「ヴィジュアル系」という言葉事態もXが生み出した言葉であることを知ったのは、
偶然にも最近、ネットのウィキペディアからであった。
そんなYOSHIKの才能は、彼がI残した形跡からも充分に理解できるだろう。
最近あんまりテレビで見ないが、GLAYがそもそもデビューすることになったきっかけはYOSHIKIである。
まだ、GLAYが売れずに地元の北海道でライブ活動をしているときに、たまたまYOSHIKIの目にとまり才能を認められ、YOSHIKIの作詞作曲のもと「RAIN」という曲でメジャーデビューしたことをGLAYの多くのファンは知らないだろう・・・
彼らがブレイクした時にはすでに、YOSHIKIプロデュースではなかったが、そもそもGLAYというバンド自体YOSHIKIと出逢うことがなければ、今の活躍はなかっただろうし、GLAYというバンドじたい存在しなかったかもしれない。
ピンと来ない方に分かりやすく説明するとミリオンセールスが馬鹿のようにでた90年代後半にGLAYは数多くの
ミリオンセールスを生み出している(オリコンのサイトで詳しくは知らべてください)
そんな数あるミリオンセールスのなかでも「REVIEW」は累計500万枚という当時の歴代アルバムセールス記録を塗り替え今でも歴代3位の記録を持っている。
単純にこのアルバムだけでも500万×3,000円=150億円
これだけの経済効果があることになる。
当時、合コンのお決まりといえばGLAYであり、私の友人も合コンで気に入った女の子がいるたびにGLAYを熱唱していて、その横で「またかよ!?」とうんざりしたのを残念にも思い出してしまった。
次にLUNASEAこれもXとの関係は深く、デビュー前からHIDEが面倒みていた弟分的な存在のバンドである。
彼がメジャーデビューする前に、所属していたインディーズレーベルはYOSHIKIのエクスタシーレーベルであった。
90年代初めの人気絶頂だった吉田栄作(今の若い子はしらないかな? マネーの虎で司会を務めていたのは記憶に新しいところだろう・・・)と仙道敦子のデュエットの「今を抱きしめて」もYOSHIKIが
作詞作曲である。
ちなみに、天才北野たけし(ビートたけし)の娘もYOSHIKIプロデュースでデビューしている。
元総理の小泉さんがXのファンであること世間の方もご存知であるかと思うが、
そんなことより、わが日本の天皇の即位10年の記念する国民祭典での奉祝曲もYOSHIKIが手掛けた曲であり、自ら演奏した。
繰り返すが、20年前の日本の音楽シーンにはXがカテゴライズするジャンルすらも存在しなかった。
「CDが売れるこがアーティストの評価」として見られがちであるが、、私は運であると思う。
今の日本はデジタル配信が進んでおりCDは当然売れないし、昔は今のように1人1台CD、MD、IPOTなども持っている時代でなかったなど、そのアーティストが絶頂期の時代背景や、経済状況に左右されるところが大きい。
Xほど、新曲リリースまでに時間をかけ、レコード会社としては採算合わないバンドなく、新曲を1年に1曲程度のスピードであったため、メディア露出も多くはなかったので、世間の多くはちょっと前まで、Xの存在自体知らない人は多いだろう。
世間の人がX-JAPANの存在を知ることになったのが「HIDEの死」あったことが実に悲しい。
はじめまして~
Xと出会って15年・・・
私の人生でこれほど、夢中になり、影響をうけたものはないだろう・・・
これからも、X-JAPAN以上の存在に出逢うことはないだろう。
いまでも、変わらずXが好きだ!
その気持ちは、決して変わらない。
X-JAPANの再結成!
TOSHIの脱退、X-JAPANの解散。
YOSHIKIの親友であるHIDEの死。
解散前に、YOSHIKIとHIDEの間に交わされていた2000年までに新たなるボーカリストと迎えてのX-JAPANの再結成が、皮肉にもHIDEの死の時に私たちには、明らかにされた。
解散後、心の中でいつか再結成するかもしれないと思っていたかすかな期待が、音をたてて崩れていった。
それからの10年間、時間とともにXを言葉にする機会も減り、次第に自分の心の中からも薄れていった。
多くのファンの方も、同じだろう。
Xは解散しても、HIDEは死んでしっまたとして、私たちの中でも時が流れている。
いつもまでも、その悲しみの中にいたのでは仕方ない。
その悲しみから立ち直り、新たなる一歩をあゆみ始めるためには、Xとの距離感をとることでしか私たちファンには出来なかった。
部屋一面に貼っていたポスターを剥がし、時間があれば常に見ていたビデオも次第に棚の後ろの方へ。
大好きな恋人と別れた時にとる行動と実に似ている。
新しい恋するための最速、最短の道のりは、過去の恋に振り向かないこと。
だから、別れたら携帯番号も消す、思い出もすべて視界に入らないところへしまう。
これは、私の恋愛哲学である。
しかし、恋愛と決定的に違うところ。
それは、私たちXファンは、X以外の相手とはその後、大恋愛を出来なかったところだろう。
だから、再結成のNEWSが流れたとき、私も含めて多くのファンの方は、またあの大好きだった恋人とよりを戻せるかのごとく、心臓がバクバクなり、いてもたってもいれなくなったに違いない。
都内に住む私は、「IV」のPV撮影の日時は分かっていたが、もう10年以上経つし、あのときのように夢中になれる自信もなかったので、お台場の撮影に行こうとは思わなかった。
けど、時間ギリギリになり気づいたら、無意識のうちにタクシーでお台場に向かっていた。
現場には、もう溢れるくらいの人が始まるのを持ちきれず、ざわざわしていた。
お台場のアクアシティー前の、公園にあれだけの人が集まるのは1年に一度、東京湾の花火大会くらいのものだろう。
そんな景色を見て、1人でにやけてしまった。
「あぁ、私だけじゃないんだ。 Xと大恋愛して忘れられない人が、こんなにもいるんだ!」
という、喜びとも安心とも一言ではいい表わせない気持ちになった。
と、同時にMY X-JAPAN MEMORY 第2章が始まった。