合理的な人っていますよね。
「わずかな時間も無駄にしたくない」
「無駄は徹底的に排除する」
「意味がないことはしたくない」
人生の時間やリソースは有限ですから、
合理的な判断をすることは必要です。
しかし、行き過ぎた合理化は、
一見無駄なものの中に存在している宝まで、
排除しているかもしれません。
こんなことがありました。
私が同僚とまったり散歩をしていたとき、
同僚は「歩く時間がもったいない。タクシーでいいじゃん」
と言いました。
これに対して、
私は「歩いているときにアイディアが頭に浮かんでくる。さらに全身の血行が良くなって、健康にも良いよ」と言いました。
確かに、同僚が言うように、
わずかな時間も無駄にせず、
その分の労力を仕事に費やした方が合理的でしょう。
実際に同僚は仕事のできる人でした。
(一橋大学からIBMを経て、経歴も無駄がない彼。笑)
しかし、無駄という余白の中にこそ、
チャンスや偶然の出会い、
とびきりのアイディアや閃きが
眠っているのではないでしょうか。
人との縁やチャンスもまた偶然の産物であり、
それらは理屈を超えた領域にあります。
過去のデータや分析によって、
「売れるだろう」と見込まれた作品が売れずに、
売れるか売れないかなんて一切考えずに作った作品が大ヒットすることが、まさにそうです。
偶然とは、余白の中から生まれるものです。
行き過ぎた合理化は、偶然の産物に出会うチャンスもまた排除しているのかもしれません。
そもそも、人間って非合理な存在。
合理性だけで考えたら、生きているだけで非合理
なんです。大量の消費をして、自然を破壊して、生きているうちに手にした物質的なものは、すべて一時的な短期レンタル。死んだら自分のものではなくなります。
どう考えても非合理ですが、
だからこそ人間らしくておもしろいのです。
合理性ではとうてい説明のつかない人間そのものが、意味のないものに意味を見出す人間そのものが、おもしろくって、たまらなく尊いのです。