僕はね、死者に対しての向き合い方は二通りあると思うんです。
とことん思い出に浸って悲しむか、それとも、なるべく考えな
いようにして悲しみを乗り越えるか、の二つです。僕はもちろ
ん後者です。相手は死んでいるんですから考えても仕方がない。
逆に自分は生きている。食べなくては生きていけないのです。
そのためには働かなくてはね。いつまでも死んだ人間のことを
考えていたら前向きには生きられませんからね、考えない。僕
はね、考えないからといって、死者を冒涜しているとは思いま
せん。考えないことと忘れ去ることとは別次元だと思うんです。
『死者を悼むこと』と『考えないこと』は、相反すると思って
いないのですよ。
上の文章は
今、書いている小説の登場人物、
具体的には
主人公の再婚した夫に言わせている言葉だ。
夫のモデルはほぼ、ハルオさんであるから
この言葉は、ハルオさんが常に言っている言葉に
近い。
ハルオさんは前妻の供養をしない。
だから、と言って
薄情な人間ではないし
前妻を忘れてしまったのでもないし
もちろん、前妻の死を悼んでいないわけでもない。
ただ
なるべく考えないようにしているだけなのと
それから
型通りな世間の(仏式の)しきたりを重んじていないだけだ。
実は、私も突き詰めて言えば
ハルオさんと似たような性格で
死んで行ったもののことはなるべく考えない。
考えるとどうしても
あのときああすればこうすれば、といった
後悔の念に襲われるし
思い出を美化してしまい
会いたい、という思いに囚われてしまい
身動きができなくなるからだ。
私が初めて
好きな人の死に際したのは13歳のときだ。
仲良しだった同級生の男の子が
交通事故であっけなくこの世を去った。
わずか13年しか生きられなかった少年の死に際したことが
私の死生観を形成した、と言っても過言ではないと思う。
悲しくて悲しくて、
まるでこの世の終わりが訪れたかのように
悲しくても
皆が同じように悲しいのではないから
悲しさを誰かに訴えても
私の悲しみは私だけのものであって
その悲しみを受け入れてもらえなければ
要するに
悲しんでいない他者がそばにいれば
余計に悲しみが増すことを学習した。
少年の死の後は
祖父母や両親の死や
前夫の祖父や父親、叔父の死
それから
ボランティア仲間の死に際したが
それなりに悲しいだけで
心が壊れそうにはならなかったから
考えないでいる、と言うよりも
考えることもなかった。
要するに平気だった
は言い過ぎだけれど
人に執着していない分、ドライなのかもしれない。
葬儀や法事などは列席や参加を求められれば出向くけれど
私は末っ子であるから
私自身が執り行うことは全くないわけで
お盆だからと言っても
田舎は遠くにあり、このかた40年以上も
お盆にはまるで関係のない
単なる日常を過ごしている。
少年の死の他に
私の心が壊れそうになるくらい
悲しかったのは
ブログを通して出会ったある男性の自死と
一昨年にお空に旅立った愛犬の死だけだ。
男性の自死は、自死だけあって
考えずにやり過ごすまで、とても時間がかかった。
今でも考えてしまうと
遣る瀬ない思いに囚われて身動きできなくなるので
考えない。
考えなければ私は普段通り息ができる。
愛犬の死はとても悲しくて
とても、を300万回言っても足りないくらい悲しかったから
すぐに考えるのを止めた。
あの子の写真は見ない。
あの子のことを書いたブログは読まない、見ない。
あの子のことを思い出すものは、見えないところにしまった。
あの子のことは口にしない。
お骨に手を合わせることもしない。
やってしまえば悲しみから抜け出せなくなるから。
供養しなければ成仏できないなんて
宗教家のこじつけ、は言い過ぎだけれど
単なる戒めだと思うから
私は、悲しみに浸って生きるよりも
考えないで明るく楽しく生きる生き方を選ぶ。
だから、といって
死んだものたちを忘れているのでは決してない。
死者を悼むことと
考えないことは、相反するとは思わない。
考えないことと、忘れることは同じではない。
私もハルオさんも
死んでいった愛するものたちのことは
決して忘れない。
だけど、考えても詮なきことを考えて
身動きできなくなることを避けたいだけなのだが
はたから見れば冷たい人間に映るのだろうな。
そんなハルオさんは
お盆なのに前妻のお墓参りもしないのね。
まったくなあ。
いくら
考えないようにしている、と言っても
お墓参りくらいしようよ。
ハルオさんは
私を
以前、行ったことのある場所へ連れて行くのが好きだ。
『三井アウトレットパーク 横浜ベイサイド』
へ行った後に
『三渓園』に連れて行かれた。
この庭園も
ハルオさんは昔、来たことがあるのだそう。
「誰と来たの?」
私が尋ねるとハルオさんは正直に答える。
ご両親とのこともあるし
子供(息子)と答えることもある。
子供と来た、ということは
前妻と来たのだろうけれど
前妻と来た、とは決して言わない。
ハルオさんは私を気遣っているのでもなく
薄情なのでもなく
自分の心を守るために
死んで行った者のことを考えないし
口にしないのだ。
前妻のことを
なるべく考えないで生きるハルオさんのおかげで
(くどいけど 考えない=忘れる ではないからね)
私は前妻の影に脅かされることなく
のびのび暮らせるのはありがたいことだ。
最後の1枚は三渓園ではなくて
山下公園ね。
そして
犬つながりの方へ。
私はまだ、もう1つのブログを見ることはできません。
写真を見ると悲しくて仕方がなくなるからで
決してあの子を忘れようとしているのではないのです。
はたから見れば
ロクに供養もしないで
ハルオさんと遊び歩いているように見えるでしょうけれど。
それで、さよならをされた、としても
黙って受け入れるわ。
私の乗り越え方は私の乗り越え方だし
ハルオさんと私は
なんというか、似ていてよかったな。