文才があれば小説家
絵心があれば絵画家
研ぎ澄まされた気持ちと感覚があれば、音楽家


どこに気持ちを置いてきたのだろう、

と思うことがたまにある。



とくに
心を病んでいたり体を病んでいたりいやなことがあったり、そんなわけではないのだけれど、たまに思う。むかしは、心が不感症なのではないかと思っていた節もある。バカだ。心に神経など、きっと通っていないだろう。無知な私は、それすら知らない。


最近ひとの心をよく傷つける。それも、本人がそのような顔をし、本人がその旨を直接に私に伝えてくれるのだから尚のことだろう。酷いことだ。酷い。私はなんて酷い人間だ。そう、酷いといって自分を酷いという枠に無理やり収めようとしている。ほんとうは、いつだって宙ぶらりんのくせに。


私はいつだって生真面目すぎる。まともに為すこと、ふつうにこなすことをまともに為し、ふつうにこなそうとする。手を抜き、楽をすることを一生懸命に手を抜き、楽をしようとする。なんて、不遇なものである。不器用?不器用なんて枠に収めては、ほんとうに不器用なひとが可哀想だ。


私は自分を形容する言葉を知らない。周りのことは形容出来る。父は真面目で家族を愛するひと、母は天然だけれど真っ直ぐで、笑顔が似合うひと、彼はきれいでふつくしい素敵なひと、なんで、こんなにも人を褒められるのに自分のことを文字におこせないのだろう。


きっと自分自身を自分ひとりで形容する必要なんてないし、そんなことを考えてる暇があれば自分が形容できる人を増やせばいい。そのほうが効率的だ。そしたらきっと、その人たちの中には、私を形容しようと思ってくれる人もいるだろう。でも私は、いつまで経っても自分自身で自分を形容しようとしている。だからこんなにも不効率的で、こんな時間になっても明日までに期限が迫った推薦文の図書を読み漁っているのだろう。


それにしても。

私の周りにはきれいでうつくしく、なぜ私の周りに?というほど素敵なひとが多い。劣等感なんて彼らには湧かない。ふつうにきれいでうつくしく、素敵だと思う。それ以下の感覚なんて沸しない。ここが私の甘いところなのか。いや、違うな。ここが、私の形容すべき所なのかもしれない。


いざ、森見мирへ。