http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101016-OYT1T00070.htm


小沢一郎氏に対する検察審査会の「起訴相当」議決に対し、一部の民主党議員が議決の透明性を問題視しているようです。


しかしながら、議決経過の不当性を窺わせる具体的な事情も何らない中でのこのような指摘は、検察審査会制度や司法制度の本質についての理解不足あるいは見識不足としか思われず、軽率に過ぎると思います。


そもそも検察審査会制度は、検察官による起訴又は不起訴の判断に対し、事後的にでも民意を反映させるという点に意義があります(検察審査会法1条1項)。仮に議決に至る議論の過程が公表されるとすれば、法律の専門家でもなく単に抽選で選ばれたにすぎない審査員は、忌憚のない意見を述べることすらできなくなることも予想され、そうなると議決に民意が反映されることは極めて困難になると思われます。このことは、裁判員裁判において、裁判員による評決過程が公開されないこととほとんど同様です。


また、検察官による起訴又は不起訴の過程も、一般的に公開されることはありません。これは、当該事案についての捜査の密行性や、事後の犯罪捜査に支障を及ぼさないようにとの要請からです。これらの要請は、検察審査会による議決の場合でもほぼ同様にはたらくものと思われます。


検察審査会の議決結果に誤りがあるか否かは、その後に続く公開法廷(刑事裁判)での弁護活動と、裁判所の判断によってなされれば足るものと考えられ、制度上もそのように予定されていると思います。


そもそも現行の刑事訴訟法上、検察官には広範な訴追裁量が認められており、仮に証拠上有罪と認められることが明らかである場合でも、公訴提起しないことも認められています(刑訴法248条)。そうである以上、検察官が不起訴処分にした事件でも、検察審査会が「起訴相当」と議決することは、何らおかしいものではありません。


さらに、判例によれば、「公訴の提起は検察官が裁判所に対して犯罪の成否,刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから,起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は,その性質上,判決時における裁判官の心証と異なり,起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当である」とされています(最高裁昭和53年10月20日判決(民集32巻7号1367頁))が、検察審査会の議決時における心証の程度としても、この基準と同程度の嫌疑が認められれば足りるでしょうし、その民主的基盤や検察審査会制度の趣旨から、あるいはこの基準より緩やかでもよい場合もあるかもしれません。


議決経過の不当性を窺わせる具体的な事情があるのであれば格別、そうでない本件(審査員の平均年齢が若いという事情がそれにあたらないことは言うまでもありません。)においては、現時点で議決経過を問題視することは筋違いと言わざるをえません。


いずれにしても、強制起訴となったとはいえ小沢氏が有罪と決まったわけではもちろんありませんので、議決結果が不当だというのであればその旨刑事裁判において徹底的に争い、無罪を勝ち取ればよいだけの話だと思います。

とりわけ検察審査会による強制起訴事案は、その起訴経過からしてもそれ以外の事案と同様の有罪率が確保されるとは思われません(それでも「起訴相当」とされたのは、有罪無罪の判断を検察官ではなく裁判所がすべきだという民意の表れでしょう。)から、「起訴」という事実自体を一般の検察官による「起訴」と同様に考える必要もないと思います。


なお、有罪か無罪かという法的責任については刑事裁判で明らかにされれば足りることですが、それとは別に小沢氏が政治的責任を負っていることも言うまでもありません。法的責任は別としても、自らの説明不足がここまでの混乱を招き、国政を停滞させる一因にもなっていることは事実なのですから、これらを棚に上げて筋違いの指摘をする一部の議員には、自らの勉強不足を猛省することはもちろん、民意についてもより謙虚に耳を傾け、真摯に国家運営にあたってもらいたいものです。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101017k0000m040082000c.html


このような事案で裁判所の監督責任が問われるのはむしろ当然というべきです。

仮に報道されているとおりに報告書の内容にまで圧力を加えようとした事実があるのであれば、

裁判所の自己保身あるいは組織防衛のためとしか考えられず、裁判所がそのような姿勢では再発防止も程遠いといわざるを得ません。

せめて裁判所には、このような悪しき「組織の論理」とは無縁であってほしいと思います。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101016-OYT1T00628.htm


著作物のダウンロード行為については、昨年の法改正により合法的な私的複製の範囲外であるとされ(同法30条1項3号)、改正法が施行された本年1月1日以降は違法であることが明確化されたわけですが、罰則までは設けられていません。


今回京都府警が立件したのは、映画のアップロードによる流出(公衆送信権侵害)目的でのダウンロード(複製)行為であり、そのような行為はそもそも上記の私的複製ではないという判断のようです。


私的複製の要件としては、著作権法30条1項柱書に「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用することを目的とするとき」と明記されていますので、アップロードによる流出目的が認定される限りにおいて、私的複製と認められないことも頷けます。


もっとも、公衆送信権侵害行為も複製権侵害行為も法定刑は「十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」とされている(著作権法119条1項)ところ、今回のような場合は公衆送信権侵害行為と複製権侵害行為との間に「目的-手段」の関係が認められると思われますので、科刑上は一罪として処理されることになると思われます(刑法54条1項後段)。

その意味でも、「入手行為だけでも違法性が問われると警鐘を鳴らしたい」という目的が重視された立件だったのだと思います。


京都地検が送検されたとおりに起訴するかどうかはまだ分かりませんが、今後はこのような行為の立件も増えるのかもしれません。