
ジョーは試合中に醜態をさらし、もはや表のボクシング界からは愛想をつかされた状態になった。ジョーはそれでも拳闘にしがみつき、草拳闘の世界に落ちていった。ただし、ジョーの魂は死んだのではなく、再生をもとめ、再生を信じて拳闘の世界にしがみついたのだ。
一方、カーロスもついに表舞台にでてきた。いい加減な男ぶりをさんざんアピールして、世界ランキングも6位と目立たぬ立場で日本人選手、南郷とのマッチをくんだ。試合が始まるまえに、南郷側はカーロスの実力に気づきあわてふためく。南郷自身も試合が始まる前から完全に萎縮してしまった。
しかし、試合が始まると、カーロスのボクシングはへたくそで、打たれ弱い。徐々に南郷側は調子にのって責め始めた。すべては演技だと知らずに。
それと平行して、ジョーの草拳闘試合のデビュー戦が始まろうとしていた。プロモーターはジョーに八百長の筋書きを説明した。しかし、ジョーは拒否する。
「こんなドロ沼のドサに身を落としてまでも拳闘を捨てることができないこのおれに・・・あんたは八百長をやれっていうのかい。あまりに残酷すぎやしねえか?あまりにもよ!」
八百長試合が始まるその時、夕立になり、大雨と落雷による停電で試合は中止となった。宿にもどってテレビをつけると、まさにカーロスの試合の最中だった。テレビを食い入るようにみるジョー。他の仲間は麻雀に興じている。
それまで、南郷断然有利で進んでいた試合、最終ラウンド開始の一瞬でカーロスのストレートが二発きまり、一瞬で逆転勝利になった。まさにラッキーであるかのような演出。
しかし、ジョーは見逃さなかった、ねらい澄ましたストレートを打ち込み、そのまま肘打ちをかます、それを同じ場所に二回、計四発!
その試合を見てから、ジョーの中の野生が目覚め始めた。草拳闘界のメインの男もそれに気づいた。そして試合中にジョーにつぶやく。
「東京に帰れ。そして、そのカーロスって男とやりあえ」と。ついにジョーに転機が来たのだ。
腐っても鯛。どこまで落ちても最後の誇り、プライドは捨てない。そういう気概が薄れてきた時代だ。
かつては、古いところでは「武士は食わねど高楊枝」、松本零士の好きだった「負けるとわかっていても男には戦わなくてはならない時がある」とか、男は命がけで誇りを守るものだという教えが、漫画、映画などのなかにあふれていた。古き良き日本文化だ。肉体が傷つくより、誇りが傷つけられることを恐れたのだ。
そこまでして守るべき「誇り」とは何なのか。そんなもので食っていけないといって、どんなに惨めなことをしてでも食うことを優先するという場合もある。それは大事なことであり、むしろそれは誇りある生き方だと思う。
北斗の拳で妹アイリをさがし、胸に七つの傷を持つ男を追っている南斗水鳥拳のレイは言った「その男を捜し出し、妹を救うまでは、泥をすすっても生きる」と。どんなに惨めな状況になっても自分にとって一番大事なものを守り抜くという気概だ。
誇りとは「目に見える形、格好」ではない。むしろ、目に見えるものはどんなひどくて、かっこうわるくて、だめなように見えても、見えるものの向こうにある見えざる部分、そこにしっかりと揺るぎなく、いかなる不当な力にも屈せず、貫き通す、守り通すものを「誇り」という。それは極めて主観的なものであり、人から見ればばかばかしい、くだらないものみ見えたりもする。人に理解を求めることが難しいものなのだ。
今の時代、見かけの形、格好を気にして、人の評価で自分を支える文化が主流になってしまった。まったく寂しいことだ。そういう誇りなき生き方が、だらだらの文化をつくっているのだと思う。今、誇りがどうのこうのというと、文化人からは「右傾、男性優位、懐古主義、戦争に向かう道」という声が聞こえそうだ。若い人たちからは「うぜえ、意味ねえ」などと言われそうだ。
そう、誇りなどというものは人に語るものではないし、同意を求めるものでもない。自分の心の中にしまっておけばよい。そういうものを「誇り」と呼ぶのだ。