おはようございます
虫の声
日暮れの早さ
秋の訪れを予感します
だけどー
昼間の🥵暑さ
よ
お立ち寄りの皆々様
ありがとうございます
ようやく 小学校の夏休みが終わり
2学期に入り
給食(*'༥'*)ŧ‹”ŧ‹”も復活しました
弁当作り 𝑓𝑖𝑛
ゎーぃ
送りも集団登校集合場所まで
保育園までになりました
(。-人-。)アリガタヤー
さて
寝付けない夜☽は
ヤハリ スマホ📱見ますね
昭和
お米だけ持っていってオカズが給食だった
画像でしょうね
食糧難のあの時期でも
コッペパン🥖🥖🥖🥖🥖は
美味しいものじゃなかったなぁ
パサパサで味もなかったし
アタシもこんな髪型でした
店舗を持たず知り合いの伝を頼りに
移動床屋さんをしている人に
外で何軒かの人集まってが散髪してもらってました
こんな画像を見ていると
子供の頃の事が甦ります
私の小学生時代は1950年後半から〜1960年代(1952年生まれなので)
破壊のあとの再生時期
勢いのある時
でも地方ではまだまだ戦後が色濃く残っていました
そんな時代のお話 ふたつ✌
あの頃は病気なんかで学校を欠席すると
その班の数人でその人の家までパンだけを届けに行きました
町に流れる川
その河原に同級生の家が有って
不法建築のバラック
入り口には筵(むしろ)が下げられていました
幼い女の子が出てきて
「お母さんはどっか行っとるお姉ちゃんは寝とる」って
一人がパン持ってきた と女の子に渡すと
「食べて良いと?
朝からなーも食べてないけん」
と喜んで受け取りました
翌日からその子は家の事でからかわれる事になりました
私はソレを止めることはできませんでした
もう一つは
過去に記事に書いたことあるので
覚えてる方もいらっしゃるかも
ある日登校すると
教室の一番後ろに布団が敷いてあって
(昔は学校に男性教師が泊まる
何か起こったときや警備のため?に「当直」って制度が有りました
用務員さんも住み込みで居たので
寝具はあったのです)
赤ちゃんが寝かされていました
早く来た友達に聞くとA君が兵児帯でおんぶして(背負って)連れてきたのだと
A君は確か6人兄弟の長男
親が預ける人もなく仕事もどうしても休めず
そんな事になったのか
A君は俗に言う優等生だったので学校も休みたくなかったのでしょう
休み時間にA君と担任の女性教師が一緒にオムツ交換していました
そう すぐビチャビチャになる綿のオムツ
おむつカバーしてるのにポトポト滴り落ちてる
子供いましたね
1回だけ 頭の手ぬぐいを外しながら
モンペ姿の母親が走り込んで来て
オッパイをあげると
又走って帰っていきました
真っ黒に日焼けした顔と
乳房の白さを思い出します
泣き声で授業が寸断された記憶はありません
覚えてないだけかも
両親共に日雇いの肉体労働者で
A君は虐められる事はなかったけれど
陰で「ニコヨンの子」と呼ばれていました
その日一度きりの事でした
あの頃苛められるのは
家が貧しい子でした
そろそろ貧富の差が目に見えてきた時期でもありました
良くない事とは思いながら
イジメっ子に抗う勇気は
アタシにはありませんでした
今も胸が痛みます
そんなことを言うアタシも豊かとは言えなかったのですが
たいていの子ががそうだったので
引け目を感じる事はありませんでした
特に和裁、洋裁、編み物ができる母が
自作する服を着ていたのでちょっと自慢でした
近くのキリスト教教会で手に入れた
進駐軍払い下げの毛布やパラシュート
も衣料にリフォームされました
今は
飽食
毎日が「外出用よそ行き」の服
豊かになりましたね
画像は全てお借りしました
感謝デス(꒪ˊ꒳ˋ꒪)。ෆ。
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7/30(土)は保育園の夏祭り
上の子も卒園生なので三人で行ってきました
若い父兄や子供たちの体温で
暑かったー
🔆 ̨ ̨ ₍⌯́ʚ⌯̀ ₎💦
駄菓子屋さんが出張販売してたので
ちょっとお高めなんだけど
山盛り買って上げましたとさ
秋が来れば
キットイイコトが起こりそう
だといいな
季節の変わり目は
体調も変わりやすい時
くれぐれもお身体大切にお過ごし下さい
最後までお付き合い頂きまして
ありがとうございました





