どうして人類史や文明、原発やエネルギーといった時事問題を扱うのか考えたことはあるか?
なぜ日常生活とかけ離れた世界のことを学ぶのか。極端な話、こんなもの知らなくたって生きていける。だったらどうしてやる必要がある? 

ジョイント・アテンションするため?
みんなで同じ方向を向いて、一体になるため?
だったら、受験勉強だってかまわないでしょう?

これが見えるようになるためには、「エゴ」を落とさなくちゃいけない。

自分の欲しいものが全て手に入ったとしたらどうする?
好きなものが好きなだけ与えられて、欲求不満がゼロになったら。
そう想像してみる。イマジネーションの世界。
もしも全ての欲が満たされたら。

想像でしかないのに、体は反応する。
「全てが満たされた」と想像すると体は「その喜びを体験する」。
鳥肌が立つくらい心地よい、ゾクゾクと喜びが沸く。
脳は現実と想像を区別しない。

全てが満たされた人間はどうなるか分かる?

争わなくなる。なぜなら争う必要がないから。
拒まなくなる。なぜなら拒む必要がないから。
怒らなくなる。なぜなら怒る必要がないから。
たいていのことが必要なくなる。

満たされている。
感謝している。
幸せ。

「自分のためになにかする」必要がなくなる。

駆り立てるものがなくなり静かになる。
心の水面が、波紋一つなく、鏡のようになる。
波立ち、渦巻いていたものが消えると、「世界」がそこに映り込んでくる。

他人の欲、欠乏、悩み、苦しみが映り込んでくる。
人類、人間としての悩み苦しみが映り込んでくる。
「日常」を離れた世界に目が向くようになっていく。

人類はいかにして今に至ったのかと知りたいと思う。
人間が抱えている根本的な問題は何かと知りたいと思う。
自分がどうすれば「世界」に貢献できるか知りたいと思う。

抽象度の高い、世界の話を扱うことは、「エゴ」を落とした人間の世界を知ることだ。
人類史や文明、現代の問題を我がこととして生きられるようになるためには「エゴ」を落とす必要がある。
自分のことはどうでもよくなるくらい満足したら、世界のことは他人事じゃなくなる。
自己拡大が起こる。自分でないものに一体化するようになるということ。

日本人が、人間が、人類が、全ての生物が、地球が、宇宙全体が「自分自身」であるという感覚。

人間は、環境から切り離されて生まれる。
それがいびつなエゴを生み出す。
このエゴが円く広がったとき、人間は初めて人間になる。

統一テーマは「極めて間接的な手法」でそこに至らしめる。

人類史? 興味ない!
放射能? つまらない!
エネルギー? わけわからない!

と言いながら、その渦の中に巻き込まれているうちに無自覚に覚醒していく。
強い変化が起こるのはそこら辺に鍵がありそうだな。
自分の直接の興味関心を離れられるようになる。
周りの人が何をしているのか見えるようになる。
共鳴、共振できるようになっていく。

そりゃあ人間が変わってもおかしくない。

受験勉強じゃだめなのは、それはどこまで行っても個人の問題だからだ。エゴを超えない。数学の世界、物理の世界、その世界がいかにつくられたかではなく、問題が解けるかどうかでしかないからだ。それは人間を変えはしない。

テーマの選び方だって、そういう仕組みがあるのではないかと思っている。