場をつくりあげる。
場に参加する。
そういうことができるようにならなければならない。
ただ単に人から「やれ」と言われたことをやるだけだったら誰にでもできる。
そして、そのとき、あなたに価値はない。
あると思ってる?
ないぞ。
試しに言うことをきくのをやめてみればいい。
どんな悲惨なことになるか、どんな恐ろしいことになるか。
自分の無価値さを突きつけられるだろう。
「人に言われたことをやるということには価値はない。」
このことを徹底的に自分に叩き込んでおく必要がある。
「利用価値」はある。それはあるさ。だけど、それは本物じゃない。
言うことをきくのをやめて「利用価値」がなくなれば、簡単に見捨てられる。
誰かがあなたを見捨てたら、その人はあなたを「利用価値」でしか見ていないということだ。
そういう人間とは、うまくやっていけばいい。信頼はしない。信用もできない。ただ取引するだけだ。
場をつくりあげるとか、場に参加するというのは取引じゃない。
これをやるから、いい成績つけてくださいという話じゃないんだ。
やるだけ損だよ。ハッキリ言って。時間と労力を割いて、見返りはない。
その場のために、自分が何を捧げられるか、犠牲にできるか。
母親は自分の子どものために全てを捧げる覚悟がある。
たとえ子どもに疎まれようと、邪魔にされようと、全てを捧げる覚悟がある。
ただひたすらに与える。無条件で。誰に言われたわけでもないのにだ。
そこには「かけがえのない価値」がある。
「こんなに頑張ってるのに誰も認めてくれない」とか「評価されてない」と思うことがある?
ないなら、もっと頑張った方がいい。そして、あるならそれは「足りてない」ってことだ。
自分を全て捧げてしまえば、「認められない」とか「評価されない」ということはありえない。
だって、そんな人は他にいないんだから、目立ってしょうがない。
その場をつくりあげるために全部捧げてしまった人間はどうなる?
自分を最優先にしたい「人間の本能」を超える。
自分を犠牲にする、一番最後にする。不協和が起こる。
だって、一番大切なのは「自分」のはずでしょう?
なんで最優先されないのか? と。
たいていの場合、その抵抗に勝てない。
「そうだ。なんでわざわざ俺の貴重な時間と金を使わなければならない? 」と。
自分を犠牲にするなんてバカバカしいと思い、自分を正当化する。
それがふつう。
でも、そこを超えると、逆の正当化が起こる。
こんなに自分を犠牲にしている = 「それぐらい大事なことなのだ」 と。
「かけがえのない物なのだ」と信じるに至る。価値創造が起こる。
大切なものが「自分以外」のものになったとき、人はポテンシャルを解放できる。
高いポテンシャルってのは、「自分のため」に使おうと思っても引き出せない。
自分を捨てて、「私はいいからこの人のために」「ここのために」というときに出る。
ポテンシャルはあっても、一生使われないで死んでいく人なんてたくさんいる。
エネルギー資源として最も重要なのは「人間のポテンシャル」だ。
これを使えるとモノスゴイことが起こるけれど、核融合より扱いが難しいだろうな。
大切なものが自分の人は弱い。
どんなに力を持っていても脆い。
それは一時的なものでしかない。
永遠を感じられない。
大切なものが自分以外のものになった人は強い。
ポテンシャルの全てを引き出して使うことができる。
それはたとえ一瞬であっても永遠を感じさせる。
たとえ一瞬でもその無条件の愛に触れた人は、一生涯忘れないだろう。
言いたいことは2つだ。
・人の言いなりになるな。それに価値はない。利用されて終わるだけ。
・自分を捧げる、犠牲にすること。それが場をつくること、参加するということ。それによってのみポテンシャルは解放される。
言い換えると、
・「利用価値」があるから与えられる愛は一時的なもの。利用価値がなくなれば消滅する。
・「無条件」の愛はたとえ一瞬でも、それに触れたものの人生を永遠に光で満たす。
ということで、
場をつくりあげるとか、場に参加するということは「自分を捧げる」ということ。
One for all みたいなもの。そういう意味じゃあ野球っていいな。Rookiesでも見てください。
本当、「一人はみんなのために」って思って一人ひとりが生きたらエライことになると思うんだけどな。
なんというか、光るな。発光する。くすぶり野郎じゃなくなるんだ。
自分のためになんか人は頑張れないよ。だって、怠惰だもの。
自分以外の誰かのためになら頑張れるし限界を超えて力を出せる。
なんで場に参加しなければいけないわけ?
なんで場をつくろうとしなければいけないわけ?
なんで自分を犠牲にしなければいけないわけ?
ブスブス言ってるくすぶり野郎に火をつけるため。
秘められているポテンシャルを解放するため。
どう考えてもそっちの方が楽しいから。
自分が一番大事なんて生きてたってどんどん狭くなるだけ。
つまんねーんだぞこれ。本当に生きてる意味がないって思えてくる。
楽しむため。
質的に変化を起す。
たった一つの方法。
「自己犠牲」
場に参加する。
そういうことができるようにならなければならない。
ただ単に人から「やれ」と言われたことをやるだけだったら誰にでもできる。
そして、そのとき、あなたに価値はない。
あると思ってる?
ないぞ。
試しに言うことをきくのをやめてみればいい。
どんな悲惨なことになるか、どんな恐ろしいことになるか。
自分の無価値さを突きつけられるだろう。
「人に言われたことをやるということには価値はない。」
このことを徹底的に自分に叩き込んでおく必要がある。
「利用価値」はある。それはあるさ。だけど、それは本物じゃない。
言うことをきくのをやめて「利用価値」がなくなれば、簡単に見捨てられる。
誰かがあなたを見捨てたら、その人はあなたを「利用価値」でしか見ていないということだ。
そういう人間とは、うまくやっていけばいい。信頼はしない。信用もできない。ただ取引するだけだ。
場をつくりあげるとか、場に参加するというのは取引じゃない。
これをやるから、いい成績つけてくださいという話じゃないんだ。
やるだけ損だよ。ハッキリ言って。時間と労力を割いて、見返りはない。
その場のために、自分が何を捧げられるか、犠牲にできるか。
母親は自分の子どものために全てを捧げる覚悟がある。
たとえ子どもに疎まれようと、邪魔にされようと、全てを捧げる覚悟がある。
ただひたすらに与える。無条件で。誰に言われたわけでもないのにだ。
そこには「かけがえのない価値」がある。
「こんなに頑張ってるのに誰も認めてくれない」とか「評価されてない」と思うことがある?
ないなら、もっと頑張った方がいい。そして、あるならそれは「足りてない」ってことだ。
自分を全て捧げてしまえば、「認められない」とか「評価されない」ということはありえない。
だって、そんな人は他にいないんだから、目立ってしょうがない。
その場をつくりあげるために全部捧げてしまった人間はどうなる?
自分を最優先にしたい「人間の本能」を超える。
自分を犠牲にする、一番最後にする。不協和が起こる。
だって、一番大切なのは「自分」のはずでしょう?
なんで最優先されないのか? と。
たいていの場合、その抵抗に勝てない。
「そうだ。なんでわざわざ俺の貴重な時間と金を使わなければならない? 」と。
自分を犠牲にするなんてバカバカしいと思い、自分を正当化する。
それがふつう。
でも、そこを超えると、逆の正当化が起こる。
こんなに自分を犠牲にしている = 「それぐらい大事なことなのだ」 と。
「かけがえのない物なのだ」と信じるに至る。価値創造が起こる。
大切なものが「自分以外」のものになったとき、人はポテンシャルを解放できる。
高いポテンシャルってのは、「自分のため」に使おうと思っても引き出せない。
自分を捨てて、「私はいいからこの人のために」「ここのために」というときに出る。
ポテンシャルはあっても、一生使われないで死んでいく人なんてたくさんいる。
エネルギー資源として最も重要なのは「人間のポテンシャル」だ。
これを使えるとモノスゴイことが起こるけれど、核融合より扱いが難しいだろうな。
大切なものが自分の人は弱い。
どんなに力を持っていても脆い。
それは一時的なものでしかない。
永遠を感じられない。
大切なものが自分以外のものになった人は強い。
ポテンシャルの全てを引き出して使うことができる。
それはたとえ一瞬であっても永遠を感じさせる。
たとえ一瞬でもその無条件の愛に触れた人は、一生涯忘れないだろう。
言いたいことは2つだ。
・人の言いなりになるな。それに価値はない。利用されて終わるだけ。
・自分を捧げる、犠牲にすること。それが場をつくること、参加するということ。それによってのみポテンシャルは解放される。
言い換えると、
・「利用価値」があるから与えられる愛は一時的なもの。利用価値がなくなれば消滅する。
・「無条件」の愛はたとえ一瞬でも、それに触れたものの人生を永遠に光で満たす。
ということで、
場をつくりあげるとか、場に参加するということは「自分を捧げる」ということ。
One for all みたいなもの。そういう意味じゃあ野球っていいな。Rookiesでも見てください。
本当、「一人はみんなのために」って思って一人ひとりが生きたらエライことになると思うんだけどな。
なんというか、光るな。発光する。くすぶり野郎じゃなくなるんだ。
自分のためになんか人は頑張れないよ。だって、怠惰だもの。
自分以外の誰かのためになら頑張れるし限界を超えて力を出せる。
なんで場に参加しなければいけないわけ?
なんで場をつくろうとしなければいけないわけ?
なんで自分を犠牲にしなければいけないわけ?
ブスブス言ってるくすぶり野郎に火をつけるため。
秘められているポテンシャルを解放するため。
どう考えてもそっちの方が楽しいから。
自分が一番大事なんて生きてたってどんどん狭くなるだけ。
つまんねーんだぞこれ。本当に生きてる意味がないって思えてくる。
楽しむため。
質的に変化を起す。
たった一つの方法。
「自己犠牲」