和尚曰く、

「ほう、そうか。」と。


なぜ日本は原子力発電を進めようとしたのか。(こんな危険なものを)
なぜ日本は事故があったときに隠そうとしたのか。(ウソまでついて)
こんな日本は異常じゃないか。

それは、本当、そうだよね、って思う。

そして、そのとき前提になっているものは
着実であることはいいことである。(一かバチかのギャンブルはよくない!)
正直であることはいいことである。(ウソつきはよくない!)
ということだ。
こういう「徳」の起源ってどこから来てるんだろう?儒教?孔子? まぁ、それはおいておいて。

今回の地震と津波で起きた福島原発の事故で、日本の「着実でもなければ、誠実でもないところ」がバレてしまった。だから、「なにやってるんだ! いったい!!」と批判したくなるというのは、それはそうだろうなと思う。

それで、じゃあどうして日本は事故があったときに大丈夫だとウソをついていたのか? と考えてみると。

ふつう、失うものがなければ正直になれる。
正直になれないのは黙って隠してる何かを守るためだろうと。
既得権益を手放さないためだろうなと推測する。

じゃあ、問題は一体、誰の、どんな権益なのか?
そもそも日本に原発が入って来たのはどのようにして入ってきたのか?

ということで、YouTubeの

原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~

も見たわけです。

テクノロジーの進歩によって「核爆弾」が誕生。
アメリカの原爆があまりに強力すぎるので、ソビエトがより強力な水爆を開発。
アメリカは焦って「核を平和利用しよう」と国際原子力機関(IAEA)を作ってそこにウランを預けようと言った。
ソビエトは核軍縮をしていこうとしたが、アメリカはこっそりと核実験を行っていた(日本の船が被ばくしてバレた)。
アメリカ卑怯だぞと責められる。日本の核アレルギー強化され、アメリカを非難する。日米間系の悪化。
日米共に国民の反原発運動に苦慮していた。柴田秀利「毒をもって毒を制する」しかない。

→「原爆反対をつぶすためには原子力の平和利用を訴えて希望を与えるしかない」。


と、映像はまだまだ続くわけですが、はじまりのところでそういうことがあったと言われています。
原発の導入も「せざるをえない」かった人たちがいて、その人たちが上手くやっていったわけですね。

「原発反対をつぶすキャンペーン」としての原子力発電の導入なので安全かどうかは二の次だったのでしょう。
逆に、これまでよく大丈夫だったな・・・とむしろ不思議になってしまいます。

事故があっても「大丈夫、大丈夫」と言っていたのは
アメリカとの関係の方が消費者よりも優先されたということ。
国や政府というものは実は「国民のためにある」のではないかもしれないですね。

政府というのはたぶん日本とはまったく別の「国(共同体)」なのだろうなと思ってしまう。


・課題
国や政府とは本当のところなんなのか?
物事はどのようにして決まるのか?
徳のはじまりは?