「内なる光というメタファー」



私が内なる光と言ったとき、それを字面の通りに考えては駄目だ。




文字通りの理解はしないこと。




そうじゃない。



私が内なるものは光のようだというとき、それはひとつのメタファーなのだ。



何かが指し示されてはいる。




しかし限定されているのじゃない。




定義されているのじゃない。




メタファーにしがみついたりしないこと。




たくさんの人々が、

このために深い泥沼に沈んでいる。




彼らはメタファーにこだわっているのだ。



私が内なる光について話す。




と、たちまち数日後には人々がやってき出して


「そのうちなる光を見ました」とやる。(笑)




そんなものはそこにはないのにーー




ーー こうした隠喩的言語のせいで、多くの人々は単純に空想的になってしまうのだ。





Osho


出典: 存在の詩 


「なぜ世界のトップリーダーたちはOSHOの本を読むのか?


レディ・ガガ、シャーリー・マクレーン、ディーパック・チョプラなど各界の著名人に愛読される幻の講話録」より抜粋


※ より詳しく知りたい方は、書籍をご覧ください。



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スピリチュアル
スピリチュアルにかぶれている人は


この「内なる光」のメタファーに飛びつく。


「ほとばしるような光を内側に見た」だの



「黄金の光がここ (ここって身体のどこ?) にある」だのと真顔で言う。(笑)


「からっぽさ」と同じだ…


使えそうなワードだと思って飛びつく。


それらの人たちには不思議と
似通った類似点、共通要素がある。


スピリチュアル用語でいうところの、
「周波数」が同じ人たちなのだろうか…


そうやって、多くの人がスピリチュアル空想が果てしないイマジネーションの病気にかかりはじめる。



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