「並なる心」と「並ならぬ心」



並なる心 (マインド)というものは、より多く、より多くを世界から得ようと求める。




あらゆるところから、

あらゆる方角と次元からーー



並なる心は偉大なる略奪者だ。



それは乞食だ。



そして、その物乞いは満たされることができないほどだ。



それは無限だ。



手に入れれば入れるほど、より以上の憧れが湧き上がる。



持てば持つほど欲望がふくれあがる。



それは憑かれたような飢えとなる。




あなたの実存の中にはそれに対してなんの必要もありはしない。




それなのにあなたは取り憑かれ、そしてどんどんと不幸になってゆく。



満足させてくれるものが何ひとつないからだ。




絶えず<もっと>を求める心を満たし得るものなど何もない。



その<もっと>は熱病だ。



それは健康なものじゃない。



そしてそれにはきりがない。



並なる心は隠喩的な意味において絶えず食べ続ける。



ものばかりでなく

人間までもーー



夫が妻をあまりにも深く絶対的に所有したいばかりに、それはある意味で彼女を食べることになってしまう。



彼は彼女が自分の一部になるように、彼女を食べて消化してしまいたい。



並なる心は人喰い的だ。



妻もまた同じことを求める。


その夫をあとかたも残らないほど、全面的に吸収することをーー



彼らは互いに殺し合う。


友達にも同じことをする。


親は子に対して、子は親に対して同じことをする。



並なる心の持つあらゆる人間関係は、他人を完全にのみ込んでしまうことにほかならない。




それは一種の喰い合いだ。




さて、次に並ならぬ心というものがある。



並なる心のちょうど反対だ。


そして、その並なる心があればこそ、並ならぬ心がこの世に存在をあらわした。



いろいろな宗教がそれを教える。



彼らは与えよ、分かち合え、捧げ出せ、寄付せよ、という。



一切の宗教が、基本的には人間は取るべきではなく、むしろ反対に与えるべきだと教える。



慈善が説かれる。



これが説かれるのは「並ならぬ心」をつくり出すためだ。



並なる心はいつもみじめだ。



<もっと>に対するその憧れが満たされ得ないからだ。



その人は常にふさぎ込んで悲しげだろう。



一方、宗教が培ってきたところの並ならぬ心はといえば、



いつも幸せで、一種上機嫌な状態にある。



その人は<もっと>を求めてはいないからだ。



反対に彼は与え続ける。



だが奥深いところでは彼はまだ並なる心のままだ。



その機嫌の良さは決して最も深い実存ではあり得ない。



それは表面的なものでしかあり得ない。



彼はただ完全に一回転して並なるものの逆になったにすぎない。



彼は逆立ちしているのだ。



シルシアサナーー



しかし彼は同じままだ。


*シルシアサナ

ヨガで肩立ちや頭立ちと言われるポーズのひとつ




Osho


出典: 存在の詩 


「なぜ世界のトップリーダーたちはOSHOの本を読むのか?


レディ・ガガ、シャーリー・マクレーン、ディーパック・チョプラなど各界の著名人に愛読される幻の講話録」より



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自分の親を手にかけ、バ◯バ◯にして喰べるという猟奇的なカニバリズム事件が起こりました。


*カニバリズム:人間が人間の肉を食べること



多くの人はこの件について、


あり得ない、他人ごとのように思うのでしょうが…



他人を飲み込んで吸収(占領)してしまいたいという欲望



あらゆる内側の狂気



誰の中にでも潜んでいる魔物


それらは至るところに存在し、


行きすぎたスピリチュアルへの警鐘と考えられるのではないでしょうか。



不安をあおり

依存させるスピリチュアル




サバイバルのために

使えるものはなにでも丸のみし、



欲しくて欲しくて仕方がないものは

侵略・略奪してでも手に入れたくなる



潜在的な

カニバリズム心理



見誤ったスピリチュアルに狂信、崇拝、傾倒しすぎれば、



危険な宗教となりえます。




それらを見極めるために、

私たち一人ひとりが、しっかりとグラウンディングし、心眼を磨いてゆく必要があるのでしょう。