SUNAMON'S THOUGHT

SUNAMON'S THOUGHT

幸せに生きるために悩み続ける非効率な日々を綴ります

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去年に引き続き、娘が通っている保育園の卒園文集に原稿を載せる時期になりました。
(うちの娘は引き続き同じ保育園に通います。すべての家族が原稿を書いて掲載するものなのです。)

テーマは去年と同じように自由。なんでも書いていいよ、と。
で、去年と同じように「未来の娘への手紙その2」という形で娘への想いを書き残すことにします。
その1はコチラです。



★★★


桂、こんにちは。今回は33歳の父と32歳の母からのお手紙です。

2歳の桂は、喜怒哀楽全開で毎日を過ごしています。桂はおしゃべりがとても上手で、起きている時間はいつも誰かと話しています。この手紙を読んでいる大きくなった桂も、今と同じように、たくさん笑って、たくさん泣いて、毎日を過ごしているでしょうか。
2歳になった桂は、もう板橋駅や西巣鴨駅まで歩けるし、初めて会う人とも自由に会話ができるくらいになりました。そんな桂の日々の成長をとても嬉しく思うと同時に、自分たちの役割がどんどん少なくなることが寂しくもあります。

正直、あまり想像できないし、想像したくないですが、僕が、桂に対して「何の力にもなることができない」という日が来るのも、そう遠い日ではないのでしょう。

遠い日ではないその日までに、僕らは桂に、何を伝えることができるのか。33歳の僕は、日々、模索しています。

僕らは桂に色々なことを伝えています。それは、野菜の名前や、お箸の使い方といった「知識」の世界だったり、いろんな場所を見せてあげたりする「体験」の世界だったりします。もう少し大きくなったら、「価値観」や「生き方」、そういった抽象度の高いことも、もちろん伝えていきたいと思っています。
ただ、それらは、人生という旅路を構築する、些細な一要素にしかすぎません。そして、僕たちが教えるその要素は、桂が生きる時代には、もはや老人の戯言にしかすぎない、そんな流れゆくものだと思っています。

とても寂しいことではあるけど、33年のごく平凡な人生経験から、本当に大切なことというのは、父、母からは伝えることはできないものだと、薄々と気づいています。それは、桂が自分自身で、色々なものと触れ合いながら、見つけだすことしかできないものなのだと。

それでも、桂に伝えられることがあるのだとすれば、それは「愛」という類の言葉で表現されるものだと思っています。言葉では表すことができないけど、「普段は全く意識しないのに、意識するとすぐそばにずっといたようなもの」、そんなやつです。


大きくなった桂にとって、父と母は、どんな存在になっているでしょうか。


普段は、僕らのことを忘れていてくれてかまわないし、むしろそれこそが、桂が自分の足でしっかりと生きている証拠ですらあります。ただ、桂が困難にぶつかった時、目の前が真っ暗になった時に、いつでも助けを求め、愛を求められる、そんな存在でありたいと思っています。

それは、ある日突然そうなれるものではなく、積み重なりであることも、重々理解しています。だからこそ、33歳の父と、32歳の母は、桂に少しでも多くの愛を伝えようと、一日一日を、丁寧に大切に生きていこうとしています。

そして、僕らの伝えたもののほんのわずかでも、桂の生き方の一部になっているとするならば、こんなに嬉しいことはありません。

桂が、本当にこの文章を目にする日は来るのかどうかはわかりません。ただ、できれば、文章で伝えるのではなく、日々を一緒に生きていく中で伝えることができれば、と思います。

2016/1/31(※父の33歳の誕生日です)


先日、新国立競技場の白紙撤回が決まりました。これまでの経緯等もあるのかと思うのですが、この土壇場において白紙撤回した、ということについて、僕は英断だったと思っています。

日本という国の特徴なのかもしれませんが、「一度決まったということは覆すことができない」という空気が過度に権威を持ちすぎではないか、というのが僕の想いです。みんながおかしいと思っていながら、「今までもそうやって決まってきたから」という理由で、放置されている事例はいくらでも思いつきます。
「問題を提起し、議論を巻き起こすこと」については大いに非難を浴びるのに、「問題を放置して何もしないことについては、何の咎めも受けない」という考え方から、そろそろ脱却したほうがいいのではないかと。

そういう意味では、この土壇場で白紙に戻した安倍さんの英断もありますが、「2500億円でやる?ありえねーよ!」と異議を唱え、議論を巻き起こした人が、最も価値を出したといっても過言ではないと思います。(誰だかわかりませんが・・・・)
この議論が巻き起こらなければ、そのまま2500億円の競技場が、粛々と建設されていたことでしょうから。

今回の国立競技場は、たまたま話題になりましたが、話題にならないまま理不尽な計画が遂行されていることなんで、水面下ではめちゃめちゃあると思いますし、ね。



同じ論調で行きましょう。

僕は、集団的自衛権に関する憲法解釈についても、議論を巻き起こしたことについては、非常に高く評価できると思います。時代が変わるにつれて、現状にひずみが発生しており、新たな解決(憲法改正とか解釈の変更とか)が必要となっている状況において、見て見ぬふりをせずに議論の俎上に載せ、結果、国民全体が関心を持ったという今の状況は、少なくとも悪い流れではないでしょう。

現状でも色々なところで署名が集まっていたり、デモも行われているらしいので、国民の関心が高まっていることは事実だと思います。安倍さんも「国民への理解が十分でない」的なことを言ってましたし。

僕は専門家ではないので、あまり本件に対する見識を述べることができないのですが、これだけ俎上に出た以上、そうそう間違った結論に至ることはない、と思っています。ひずみが発生しているにも関わらず、問題が表面化することを恐れて、曖昧なまま国の方向性が決まることのほうが、よっぽど危険です。



大事なことは、問題が議論の俎上に上がり、多くの人が関心を持つこと。それを隠し続け、本当にどうしようもなくなったり、切羽詰まった時に、問題が初めて顕在化し、「もう手遅れです」みたいになることが、最も悲劇です。
議論の俎上に挙げ、仮に結論が「現状維持」となったとしても、「現状維持」となる経緯に大きな意味があるのです。「異議を唱え議論を巻き起こすことこそが大きな価値である」という考え方がもっと浸透すべき、というのが僕の想いです。



世の中には、ひずんだ状態が放置されていることがたくさんあります。何も問題がない、なんてことはあり得ません。色んな問題がオープンになって、様々な議論が巻き起こることこそが、本来の望まれる姿なのです。

色んな議論が巻き起こっていくことを歓迎しましょう。それは、みんながよりよい未来を願っている証拠でもあります。
未来を思う願いが、たくさんの主張を引き起こし、子供たちに素敵な未来を残すために議論する、そんな好循環サイクルがまわり続ければ、この国の未来はとても明るい。
私が会社に入ってすぐの頃、目の前の与えられたことだけに一生懸命になっていた時代に、上司から指導されたことがあります。それは「仕事をするときは、常に木を見て、森を見て、木を見て、森を見て、を繰り返し続けなければならない」ということでした。

「木を見て、森を見る」という言葉自体は、よく耳にすることがあるかと思います。ただ、その上司は、「継続的、かつ意識的に、「木」と「森」を切り替え続けれなければいけない。それは1日に何十回も、だ」だと、切り替え続けることの重要性を言っていたのだと思います。

で、その言葉を思い返した時に、思ったこと。「木」を目先のこと、「森」を将来のこと、と置き換えると、この比重を決めるということは、人生の生き方を決めるに等しいことだ、と。



仕事ではもちろんのことですが、僕らは日々の生活の中においても「木を見続ける/森を見続ける」のいずれかに傾注しがちです。

木を見続けることに偏っている場合、
・重要な会議を乗り切ろう、とか
・今日一日が楽しければいい、とか
・目の前の一戦一戦を全力で戦うことが重要
といった意識になりがちです。

一方で、森を見続けることに偏っている場合
・将来幸せになるために、今は一生懸命勉強しなさい、とか
・とにかく成長することが重要、とか、
・万が一のために、今はひたすら節約して貯金しているんです
といった意識かと。

当然ですが、最適なバランスというのは、その間のどこかにあります。そして、そのバランスは日々刻々と変化していくものである、とも思います。
「木を見ること」「森をみること」のどちらがいいとか悪いとかそういうことではなく、大切なのは「どれくらいの比重で、木、森、を見ているか」「今、自分がどこを見ているかを意識しているか」ということです。

そして、「木を見ること(今)を楽しみつつ、森(将来)のことも見ながら動く」ことの比重を決めるということは、その人の人生をどのように描くか、に等しいと思っています。人生の描き方を決めるには、常に木と森を切り替え続け、意識し続けることが重要なのだ、と。



30代になって、もう2年半くらいたちました。

・仕事では、目先のことしか見えていない新人と、長期的な視点を重視する経営層の間でバランスをとり、
・日々の生活では、家族を養うために一生懸命稼ぎつつ、家族や子供とどんな人生を描いていくかを考え、
・個人的には、おいしい食べ物にむさぼりつきたいと思いつつ、おなかの肉、ひいては健康のことを考えて、
毎日が怒涛のように過ぎていきます。

そんな30代で出会った環境たちが、僕に色々と教えてくれます。お前は今、木を見ているか、森を見ているか、そして、木と森のその先に、どんな景色を描いていくのか、と。

人生というのは30代になっても、なかなかおもしろいものだなーと、しみじみ感じる今日この頃です。
最近、Facebookで難病の子供を救うための募金を募るサイトをよく見かけるようになりました。昔であれば、街頭での募金活動しか方法がなかったのに、インターネットやSNSの普及で、個人でも声を挙げることができるようになったことは、本当に素晴らしいことやと思います。

でも、僕は思うのです。この活動は素晴らしい活動だけど、これで留まってはいけない、と。

先日見たサイトでは、その少女が患っている難病は「50万人に1人」ということでした。単純に日本人口が1.3億人だとしても、200人くらいは同じ難病の人がいるわけです。でも、その難病を持った子が、みんな個人で必要な資金を集められるかというと、必ずしもそうではありません。

SNSやインターネットを使ったお金を集められる手段を知らなかったり、知っていたとしても、十分な人脈・スキル・体力が不足していたり、せっかくサイトを作っても、上手な告知ができず、ネット上で色々な攻撃を受けたり。

この活動は、高難易度な、命を救うプロジェクトなのです。


僕は、「助かる可能性のある命を、その可能性に懸ける権利」は、全国民が受けれる権利にすべきだと思っています。

僕らがSNSで目にする「病気の子供を助けたい」というサイトの裏側には、僕らが知ることがないまま、命を失っていく子供がいる、という状況があります。言葉が適切かどうかわかりませんが、「マーケティングに成功した人」だけが、命が助かる可能性に懸けることができている、そんな現状だと。

この状況を打破して、誰でも生きる可能性に懸けることができるような、そんな仕組みを構築すべきなのではないでしょうか。「コンクリートから人へ」といったスローガンが一時期流行りましたが、道路の整備する前に、こっちでしょ・・・と。


このテーマは、人の命が関わる話なので、財政的な問題だけでなく、倫理的な問題も多数あるでしょう。でも、解決の方向性は、
・国内で同じ手術を受けれるようにして、かかる費用を下げる
・国民保険の対象内にする
等、色々できることがあるはず。「正解」はありませんが、継続的に改善を繰り返していく、そんな必要があるテーマだと思っています。


SNSの普及で、助かる命が増えてきています。この流れは本当に素晴らしいことです。そして今、これを糸口に、もう一歩、根本的な解決に踏み込む、そんな必要性が求められているのではないかと。

「命のプロジェクト」、その先へ。
一つでも多くの命が救われるような、そんな未来が早く来ますように。
数年前に、電車運賃が1円単位になりました。最近ではSUICA専用自販機も出てきていて、ジュースが1円単位で販売されています。

現金の場合、小銭が必要(販売機にも十分なお釣りが必要)だったり、お金を数える手間だったり、すごくめんどくさいですよね。このため、以前は、価格設定における限界は10円単位だったのだと思います。これが、電子マネーやおサイフ携帯といった新しい決済手段の登場により、1円単位での価格設定が可能になったわけです。
おかげで、「消費税の3%⇒5%⇒8%という増税の中でジュースは100円⇒110円⇒120円と10%ずつ値段があがる」といった、現金決済に伴うひずみも解決でき、真にに妥当な価格設定ができるようになりました。


この、「リアル現金からデジタル通貨へのシフト」による効果は、10円単位⇒1円単位といった、「単位の詳細化」だけに留まりません。
自動販売機をインターネットにつなぐことで、販売価格をリアルタイムで変更することができるという、「リアルタイム化」も大きく推進してくれます。

「リアルタイム化」が進めば、
・猛暑日には、ポカリの値段を高くして、おしるこを安くする、とか
・雨が降ってきた時間帯だけは、タクシー料金を高くする、とか
その時の需要に合わせた、価格変動が可能になりますよね。

更にもう一歩進んで、「価格表示デジタル化」まで進めば、
・急に品薄になったと噂された「レモンジーナ」の価格を、突然2倍にしたり、とか
・色違いの衣服を、人気色は高く、そうでないものは安くしたり、とか、
・同じ居酒屋チェーンでも、都心部は高く、地方は安くしたり(土地代の関係で)、とか
自動販売機や駅の券売機だけでなく、スーパーやデパートにおいても、より柔軟な価格調整が可能になっていきます。


僕は、この先10年くらいで、時々刻々と需要供給バランスによって販売価格が変わるような「超価格柔軟時代」が来ると思っています。その時代には、上記に書いたような例が当たり前になっているのではないかと。

今でも「タイムセール」「会員になれば割引」といった、価格を柔軟に変えようという思想は存在しています。ただ、人の運用による限界が存在していたので、その価格変動は粒度が荒いものに留まっていました。でも、この「デジタル通貨」のテクノロジーのおかげで、その制約はなくなります。そしたら、もっともっと価格は、適正な方向に動かすことができるようになります。
どちらかというと、今が、ひずみが発生している状態なんだよね。このひずみは、それを破壊するテクノロジーの登場によって、どんどん解決する方向に進むはず。


もう一つ、思うこと。
それは、この「ひずみがなくなる」未来においては、「価格」だけでなく「給与・報酬」も超柔軟になる、と。

人が仕事の中で提供している価値は、必ずしも毎年増加していくものではありません。冬場には大人気のおしるこも、夏の炎天下で売っていては、全く売れないのと同じです。本当に高い価値が提供できた場合には、高い報酬が与えられるべきですが、それができなかった場合には、報酬は下げられるべきです。
ただ、現状では、必ずしも上記に書いたような状況にはなっていません。その原因は、職種であったり、働いている国・環境であったり、社会であったり、様々なものが複雑に絡み合っています。その結果、世の中には、その提供価値に見合った報酬を受け取ることができていない人がたくさんいるはずで、「この人、もっとお金もらっていいでしょ!」みたいなことを、よく目の当たりにします。

これは、テクノロジーの世界だけの話ではないので、解決には少し時間がかかるかもしれません。でもやっぱり、提供した価値に見合った報酬が支払われる、というのが、あるべき姿だと思います。僕は。


「価格」「給与・報酬」、その設定において発生しているひずみは、今後、必ず弱まっていきます。僕はそんな「価格超柔軟時代」が来ることを、楽しみにしています。

その世界はきっと、全ての人に対して、とても厳しく、とても優しい社会なはず。
先日、保育園のパパママ友から、「この保育園に通っていると、区から毎月 15000円のが補助されるよ」的な話を聞きました。実は以前に、「保育園に通っていると支給される手当がある」という噂は聞いていて、区役所に問い合わせたことがあるのですが、その時には「あなたのお子様が通っている保育園は、対象外です」と言われたんですよね。で、改めて確認してみると、やっぱり補助がでるみたいです。
えぇぇー!って感じですよね。

また別のある日、妻の通勤用に、近所の自転車屋で電動自転車を購入したのですが、お店の方から「北区では親子用の自転車を買えば 20000円の補助金がでるんですよ」と言われ、その時初めて補助金のことを知りました。もし僕が、池袋のヨドバシカメラで自転車を買おうとしていたら、決して受け取ることはできなかった20000万円。
えぇぇー!って感じですよね。

他にも、国からは児童手当もでるし、消費税増税の対応分として、子育て世帯臨時給付金もでるし、なんか色々ぐちゃぐちゃです。そして、毎回、個別に銀行口座の登録をしたりするんです。さらに、なぜかネット銀行は受取先にできないとかあったりします。

・・・複雑すぎ。


本来、このような手当は、時間やお金に余裕がない、共働き夫婦、母子家庭、父子家庭など、そういう境遇の人にこそ確実に届くべきものなはず。それが、こんなに複雑だと、情報を収集する余裕があり、平日昼間の手続きも可能な、余裕のある人にしか、届かないじゃん!と思うのです。

国は、我々国民の家族構成をすべて把握していて、かつ、年収情報も把握できているはずです(納税しているので)。ということは、手当が支給されるべき世帯を、システム的に自動で抽出して、そのまま自動でお金を振り込んでくれればいいよね。めんどくさい情報収集も手続きも不要で、絶対にお金が届くじゃないですか。
銀行口座だけは登録しなければいけないかもしれないけど、マイナンバーを活用できるのであれば、そういうのも全部なくしてほしいよね、と。(国に情報を管理されるなんて嫌!という人の意見もあるかと思いますが、大丈夫です。何も言わないけど、googleさんやAmazonさんは、あなたのことほとんど知ってますから)

「余裕がある人にしか手当が届かない」という複雑さは、日本の手当制度における致命的な欠陥です。本末転倒も甚だしい。この問題を抜本的に解決すれば、貧困を起因とする餓死や幼児虐待は、劇的に改善されるのではないかと思うほどです。(感覚ですが)



ただ、僕はこれに対して、役所で働く公務員の方を責めるつもりはありません。

これには「競争が働かず、サービスレベル向上のモチベーションが起こりにくい」という、公務員の仕組み上の根本原因が関連してきます。本来であれば、
・今の自治体のサービスレベルが低ければ、現行市長や市議会議員を選挙で選ばない、とか
・サービスが充実した街に引っ越しする、とか
そういうモチベーションが発生するべきなんですが、、、、まぁ、感覚的にも、日本では難しいですよね。(そういう意味では、その仕組みから改善しようと試みた「大阪都構想」は本当に残念でした)

さらにいうと、役所や大企業では、自分の部署の予算を確保するため「これだけのお金が必要である」と主張することが重要な役割となっています。サービス改善に向け、「余分な手続きとかを一切不要とし、すべてシステムで自動実現する」ことが圧倒的に国民にとっては望ましいのですが、手続きの作業に必要な人員がいらなくなると、自分の部署で予算をとれなくなってしまいます。それは、結果として自分の権限を小さくする(かのように見える)行為なので、そこでもモチベーションがは起こりにくいわけです。

なんとかしてほしい、とは思うけど、自分が公務員になったことを考えると、改善が起こらないのはしょうがない気もする。


と、いうことで、状況を打破するためには、国・自治体のトップが、強烈なリーダシップを発揮するしかありません。
・ネットでワンクリックでなんでも買える時代に、わざわざ印鑑を押して手続きが必要っておかしいでしょ
・生活保護という仕組みがあるのに、餓死者がでるっておかしいでしょ
といった事実から、国民一人一人が声をあげていくことが、地道ではありますが、もっとも有効な手段かと思います。テクノロジーはもう、十分に成熟しているからね。

どっかの自治体だけ頑張って対応してみる、とか、韓国に先を越されるとか、そういうのもいいですよね。他がやっていて、いいな、と思うと、どんどん広がっていきますから。



どんなキッカケでも、どんな方法でもかまいません。
本当に必要な手当が、本当に必要な人に届く、そんな日がはやくきますよーに。
先日iphone5sが壊れたので、機種変更のため池袋に行きました。夜20時頃だったのですが、どうしても機種変更を当日に済ませてしまいたく、普段はあまり利用しないヤマダ電機で機種変更を。
ヤマダ電機は、顧客も社員も中国人の割合がめちゃ高かったです。意識してるのかしてないのか知りませんが、観光客の需要を満たすという意味では非常によい戦略だと思います。

で、思ったこと。これだけワンクリックで商品が買えるようになった現在、家電量販店が生きていくのって、結構大変だなーと。僕は当日で機種変更を完了させたかったので店舗に行きましたが、普通になにか家電を買うのであれば、価格.comとかで買っちゃう人も多いでしょう。大量仕入れするから仕入れ価格の競争力はあるでしょうが、都心に実店舗を抱えたくさんの販売員を配置することを考えると、価格競争の世界で戦うのはきついかと思います。

もし僕が家電量販店の社長だったら・・・と、大好きな妄想で、家電量販店のこれからの戦略を考えてみようと思います。


家電量販店の提供価値ってなんだっけ、と考えてみると(対ネット比較)、

①【購入前】そもそもネットが使えない人の購入場所である
②【購入前】実際の商品を一気に見て比較・相談することができる
③【購入時】その場で持ち帰ることができる
④【購入後】サービス(問い合わせ対応とか)が充実している
⑤【購入後】保証(壊れた時の対応)が充実している

といったところでしょうか。
で、このうち、圧倒的な競争力の源泉は、僕は②だと思っています。

①はここ数年は大丈夫でしょうが、これからはパイが小さくなっていく世界です。①を差別化要素にしようというのは厳しいかと。
③はそもそも製品が限られるよね。
④は、「ネットで購入を検討」している時点で、サービスを必要としている人は少ないと思いますし、
⑤は別に家電量販店じゃなくて、ネットでも同じことはできる領域だと思っています。

なので「②実際の商品を一気に見て比較・相談することができる」は、最も重要な差別化ポイントでしょう。
実際の色合いとかデザインって、ネットで見るには限界がありますよね。あと、一つの商品に対して、製品仕様とか口コミを見るのはネットが便利ですが、複数製品をどーんと比較しようとする場合には、実店舗の方が圧倒的にわかりやすいです。色々と各メーカの人に質問できるのもありがたいですし。

・・・が、ここで真っ向勝負できないのが、家電量販店の苦しいところだとも思います。


②のサービスは実質無償で提供されてますよね。「色々と比較したり説明を聞いた後に、お店の外にでて価格.comで買っちゃう」みたいなこと、実際にやっている方もいらっしゃるかと思います。僕もよくやってます。お金、大切だから。
とはいえ、家電量販店が全てなくなって、どんどんネットになっていく・・・というのも、消費者は困りますよね。さすがに大型家電買う前には、実際の商品見たいじゃないですか。冷蔵庫とか、想像してたのと色合いが違ってたら、めちゃショックじゃないですか?

ここに、僕はひずみがあると思っています。家電量販店側は価値を提供しているのに、そこで対価を受け取る(マネタイズする)仕組みがない、という状況です。



ということで、僕は「家電量販店には入場料とっちゃえば?」と思っています。「②実際の商品を一気に見て比較・相談することができる」という価値に対して、ちゃんと対価をとろう、という発想です。もう「家電を選ぶ」というのは「美術館に美術品を見に行く」というのと同じにしちゃえ、と。

家電量販店、見るだけでも結構楽しいじゃないですか。ルンバとかダイソンとかバルミューダとか美術品と思うレベルの製品もたくさんあるし。入場料取ったら、入店する人は限られるので混雑もなくなりますし、店員さんを捕まえてじっくり話を聞いたり、製品を選んだりできますし。なんなら、雰囲気をホテルみたいにして、クロークとかコーヒーの無料サービスとか提供しちゃってもよいと思います。店員はみんなスーツでね。
今でもオーディオコーナーだけは、ちょっと高級感ありません?あんな感じかなー。appleの製品が置いてあるところみたいなイメージでもいいです。iphoneの代わりに、同じ雰囲気で冷蔵庫がおいてある感じ。だめですかね?

扱う商品は高級家電に絞ってもよいかと思います。500円のやつとか置いちゃうと、店内がまた煩雑になりますからね。
あとは、家電専門デザイナーみたいな人を作って、セレクトショップみたいにしちゃうとか。(衣服のBEAMSとかユナイテッドアローズみたいな)ただし有料で。


ここでは家電量販店を例に挙げましたが、百貨店や大型書店のような「いろんな製造元から、ものを集めて店頭で売る」という業態に関しては、同様のことが起こるのではないか、と思います。やっぱり店舗と人を持つ、というコストは大きいし、そこで提供している価値を、マネタイズできない仕組みはどこかで苦しくなると思います。

直近はネットが利用できない方向けの対面チャネル、外国人向けの対面チャネル、として、十分に戦っていけるかと思いますが、それでも苦しくなるくらいネットでの購入が普及した時代に、百貨店や家電量販店は、新しいビジネスモデルが必要となるかと思います。

10年後、新宿がどうなっているのか、ちょっと楽しみです。



※2つほど余談。

1つ目、スーパーはネット販売が広まりつつも、店舗は全然残ると思っています。なぜなら、スーパーの提供価値は、家電量販店とか百貨店と違って、「③【購入時】その場で持ち帰ることができる」というのが圧倒的に強いから。(そしてその価値は、ネットでは現状提供できていないので)

2つ目、ジャパネット高田は通販という非常にマニアックな業態ですが、しばらく生き残るかと思います。彼らの提供価値は「製品を比較して探すことすら大変なので、そこを誰かに任せたい」という顧客に対して、「あなたにとってベストかどうかは知りませんが、決して後悔はさせません」っていう商品を売る、というところだよね。
ネットや家電量販店の顧客とはセグメントが違うはずです。彼らは量販店のテレビチャネルではなく、セレクトショップTAKATAなのだというのが僕の感覚です。テレビでやってると見ちゃいますし・・・
今年に入って、結婚披露宴にいくつか出席させていただいたます。そして最近、披露宴に参加すると、100%涙が出るようになりました。娘を授かってから、新婦の姿を娘と重ねてしまうようになったのです。

新婦の手紙による涙腺への攻撃力は半端じゃないです。「20年後、この言葉を自分が受け止めることになるのかも」と思うと、一撃です。改めて、父親・母親というのは、本当にすごい存在だなーと思います。僕はまだ1人1年の父親経験ちょいなのに、日々ギリギリですから。

そして、新婦の手紙を聞きながら想うのです。
・娘に対する父親としての姿は、その手紙に載せられた想いと釣り合うのか、
・20年後の自分は、娘の想いを、誇りをもって受け取ることができるのか、
と。

披露宴に参加すると、改めて、「家族」の絆が染み渡ります。ほんと、素晴らしい祭事だよね。


最近、もう一つ、披露宴に出席して感じることがあります。それは、
「今の自分が、娘の結婚相手だとした時に、父親である自分は、娘の結婚相手として歓迎できるのか」
と。もうちょい丁寧に書くと、
「今現在の自分の生き方を(A)とする。
20年後に娘が結婚することになり、パートナーになる人が(A)の生き方をしていると仮定した時に、20年後の僕がそれを心から歓迎できるのか。
そんな生き方(A)を、今現在の自分が実践できているのか」
ということです。(・・・表現が難しい)


「自分が命を懸けて守っていきたい生き方は何か」
と聞かれると、答えは中々導き出せるものじゃないけど、
「自分の娘が結婚するときに、結婚相手にこういう生き方をしていてほしい」
というのは、なんとなく考えやすいですよね。(もちろん、娘の人生なので、父親である僕が口出しする話ではないと、重々承知していますが)

披露宴って、僕にとっては、自分の生き方に対する価値観を再認識させてくれる場でもあります。ほんと、素晴らしい祭事だよね。


基本的には、僕は、他人の幸せを受け入れるのが苦手なタイプなのですが、披露宴だけは、純粋に祝福できる人間なのです。人生いろんなイベントあるけど、結婚式・披露宴はやっぱり特別なのだと思っています。
普段は僕のことを嫌な人間かと思うこともあるかもしれませんが、結婚式に参加しているときは中々いい人間になってます。なので皆様、遠慮なく私のことを招待していただければと。もし、涙腺が崩壊していたら、20年後のことを思ってるんだなーと考えていただけば幸いです。




涙腺とは全く関係ないですが、結婚披露宴は、パンが美味しいと後々の評価が高くある傾向にあるかと思います。(統計的なデータを取ったわけでないですが、身の回りのサンプルだけで、十分に語れるレベルです。)もし式場で悩まれた場合は、パンが美味しいところを選べば、決して後悔しないと思います。

アニヴェルセルは美味しいですよ。パン。
今日は、妻の実家に遊びに来ているので、少しだけ時間にゆとりがあります。ということで、二日連続でブログ書きます。

みなさんは「生産性」という概念を、日常の中でどれくらい意識しているでしょうか。「生産性」とは単純に言うと、どれだけのINPUTからどれだけのOUTPUTを出したか、を表す指標ですね。INPUTは、投資金額/時間/集めた情報量、OUTPUTは/売上/生産量/品質、などで考えられることが多いかと思います。

僕が所属している外資系企業では、新人の頃からこの「生産性」という考え方を徹底的に叩き込まれるので、
・お前に、ひと月いくら金がかかってると思ってるの?
・それって勉強してるだけの作業だよね?何のアウトプットにつながるの?
・いいからバリューを出せ!
といった指導(一部、罵声の場合あり)を、毎日のように頂戴していた記憶があります。あまり思い出したくない過去です。

この「生産性」という考え方は、僕は超重要だと思っていて、国・企業・個人に至るまで、「成長をする」ということは「生産性を高める」ということに尽きると思っています。「生産性が高い」=「仕事ができる」と置き換えていただいてもかまいません。


「生産性」について思うことは色々あるので、それはまた別の機会に書きますが、今日は「生産性」が高い人々ってどんな人か、ってことを考えてみたいと思います。


生産性が高い人の代表的な例としては、工場で勤務する方々や、コールセンターで問い合わせ対応する方々だと思います。日本人の仕事に対する意識というのが根底にあるかと思いますが、それに加えて、INPUTとOUTPUTが数値で表現でき、可視化しやすいという要素もあるからでしょう。この領域は、何十年も改善が蓄積されており、「日本企業の強み」といえるレベルに達しているかと思います。
ちょっと種類は異なりますが、同様の理由で、厳しい売上目標を具体的な数字で示されている営業系の人も、生産性が高いと思います。



でもね、僕の短い人生経験の世界の中で感じるのは、一番生産性が高い人って「子育て中のお母さん」ではないかと。


夜は2時間おきとかにおっぱいで起こされて体力も回復できないような状況の中で、まだ言葉も理解できない子供を守り育てていく「子育て」という活動は

・突発的に発生する子供のシグナルを常にキャッチし、
・何を今すぐ行動しなければいけないのか、優先順位を即座に判断し、
・必要になれば、迷わず周囲に助けを求め、
・その結果(=子供の成長)について、責任を担う

という、超難易度な活動だと思います。しかもひと時も休むことなく、です。

さらに、仕事にも復帰しているとなると、これに加えて仕事と子育てとの両立という、更に難しい判断を日常の中で迫られ続けている状態になります。

そんな状態を考えると、子育て中のお母さんには、家事が疎かになったって、少しだらしなくなったって、全く気にしなくてよい、というのが僕の思いです。それらは、限られたお母さんの体力の中で、優先順位「低」と判断されたことなのだから。

僕の短い人生経験の世界の中では、この「子育て」という超難易度の活動を乗り越えたお母さんは、圧倒的に生産性が高いです。生産性という表現ではうまく伝わらなければ「本当に大切なことを見極める力」と言い換えてもよいです。本当にすごいよ。子育てを経験したお母さんは。



現在、少子化が進んでおり、子育て環境の充実に向けて、政策としてもなんとか解決しようという素振りは見て取れます。なんだけど、「国や企業が子育て世帯を支えてあげる」という思想が、なんというか、もはや的外れすぎ。

「子育て」の期間というのは、ブランクでも何でもありません。むしろ、「子育てを経験したお母さんたち」は、超貴重な経験を積んだ人財である、と社会全体で認識すべきというのが僕の想いです。ただ、なんとなく会社に何十年も居座っているだけの人たちより、ね。

そして、国の偉い方々や企業の経営層の方々は、「子育てのために会社を退職する」「育休を取った人が、復帰しにくいような環境である」という状況は、国にとっても企業にとっても、とてつもなく大きな損失である、ということに早く気がついた方がよいです。日本で最も生産性の高い人々に、活躍できる場を提供できないなんて、ありえないでしょ。

それを提供できない要因(=僕は”終身雇用”だと思ってますが)があるのなら、それはとっとと捨ててしまった方たよいです。(以前の関連エントリ)

この国には、まだまだ埋もれた人財がたくさんいます。
みんなの意識を変え、その環境を整えることができれば、この国の未来はとても明るい。