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無常・苦・無我
『ブッダが三法印についての経典で述べているとおり、生きるという経験は不確か:無常で、自分の思惑や欲求という観点からするとまったく満たされない:苦もので、そして実体がなく:無我、しがみつけるものも与えてはくれない』〈マシューズ〉
では、「本当に生きる」という経験はどんなものか?
本当に生きるという経験は、いまここに在る「自分と世界」 の 「あるがまま」を、思考というフィルターを通さずに、価値判断しないで、ストーリーを創らずに、「わたし」という感覚を介して限定することなしに、ただ感じること、意識すること【色即是空】から始まる。
⒈ 色即是空:わたしはいない〔理解〕
出来事や対象に出会ったときに、気持ちいいとか 嬉しい・楽しい・好きといった「快」感覚、または嫌な感じとか 悲しい・辛い・嫌いといった「不快」感覚が瞬時に生まれる。思考は、この「快」の感覚をただちに「善い・正しい」というポジティブな価値判断(意味づけ)に変換してしまい、それを追い求め執着し続ける。また、「不快」な感覚を「悪い・間違い」とネガティブに評価し、遠ざけ抑圧し、そこから逃れようとする。
もしくは、「悪い」ものを「善い」ものに変えようと必死になる。
実は、善いとか悪いというジャッジは 思考がでっち上げた妄想(仮の・一時的な判断)に過ぎない。ありのままの現実には、善いも悪いもない。善いとか悪いという価値・意味は、この現実世界をより有利に生き延びるために 人間が創りだした実体のない概念で、思考が言葉というツールで意味(概念)を創りだしているに過ぎない。
この、「善い」に変換された「快」をどこまでも追求する態度【貪】と、「悪い」に変換された「不快」を否定し続ける態度【瞋】が、「苦悩」を生みだすメカニズムである。
仮の判断なのに それを絶対視(執着)してしまうと、そこから 追求または否定の循環が始まり、苦悩が創りだされる。追求/否定から再び新たな感情が生まれ、その感情がまた思考を呼び起こし 尽きることがない。この感情と思考の循環状態と一体化して 自分がそれだけになってしまい、他のものが見えなくなっているのが苦悩状態である。
自分や他人や状況に対して、言い訳したり正当化・合理化しようとして防衛体制に入ると(自分が悪くないことを説明しだすと) 否定の循環が始まる。防衛はときに攻撃に転ずる。
「善と悪」のように対になる概念で世界を二分し、「快/不快」の感覚【受】に その二分された概念ををすぐ結びつけてしまうこと【想】が、そもそもの苦しみの始まりである。
無明とは、対になる概念を生成する思考(言葉)が、世界を二分・二元化することである。
十二縁起(無明 →行 →・・・)の始まりとなる無明とは、善/悪などのように二分し、分離し、限定する思考のはたらきのこと。その思考が「快を善、不快を悪」と意味づけ(想) それに執着することで生まれる行動のエネルギー源となる意志の力が行(サンカーラ)
サンカーラが 貪と瞋を引き起こす。
五蘊(色受想行識)の中の受→想→行とは、苦楽(快不快)を感受し:受→それをジャッジし、価値判断する:想→さらに追求/否定しようとする意志・願望・欲求:行が発生する、ということ。
この「行」が(素早く)感情を引き出し、(反射的な)行動を引き起こし、循環を形成する。この行によってなされる行動・行為が業(カルマ) 行(サンカーラ)の反対語は「あるがまま」
二分・分割(分析)したのち、細切れにされた要素を様々な方法で再構成し、意味のある結論を導き出すのが思考のやっていること。そこで得られた結論は「仮のもの」に過ぎないのに、「分かったつもり」になってしまう。限定された状況(部分)での傾向を、普遍的な真理(全体)であると思い違えてしまう。
このやり方(思考)では、けっして 全体としての普遍的な真理に到達することはできない。つまり本当の意味で、世界と自分を「知る」ことはできない。
わたしたちは 仮に知ったつもりになっているだけで、実はなにも分かっていない。「無明」とは、なにも「知らない」ということを知らないことである。とかくエゴは知りたがり、解釈せずにはいられない。
確実には知り得ないということを知っていて、知らないということに寛いでいられれば、物事を断定することがなくなり、いつでも可能性(希望)が残されていることが分かる。
したがって、感覚とジャッジの間にスペースをつくって快不快(の感覚)に是非という思考を付与しない(快不快を感じながらも、あるがままの状況をただ意識しているだけ:「受→想」を断ち切る)か、その思考を絶対視しなけれ(「想→行」を断ち切れ)ば、苦悩は存在し得ない。しかし、そのことをいくら考えてみたところで、この「受→想→行」を切り離すことはできない。
サティだけが それを可能にする。「いま・ここ」に留まり続ければ、ジャッジ(想)しないでいられる。それに囚われ(行)ずに(絶対視しないで) 「こうあるべき」と思わずにすむ。
否定し抑圧し逃避し、無意識に押し込むのでなく、ただ感じながら観ること(サティ)ができるか否か、追求することに囚われていることに 自ら気づくことができるか否か、そこが肝心である。
嫌だとか 心地よいという(快/不快を伴う)経験に、悪いとか善いという判断を加え、悪いと判断したことを否定し、善いと判断したことを追求する、その否定または追求の循環(執着)が「欲望」の意味するところである。すなわち、欲望とは「行(サンカーラ)」のことである。
サンカーラ は絶えず「結果」を求めていて、「結果」が思うようなものでないとき、失望する。だから、(サンカーラとしての)意志の力が苦悩を創りだしている。どちらか一方を否定も追求もしない(し過ぎない)生き方、サンカーラと反対の生き方が「中道」
しかし、不快(苦)を経験しないために快(欲)の経験も回避してしまうのは、大きな誤ち。それは現実否定であり、人生からの逃避である。「いま・ここ」を生きていることにならない。瞬間瞬間の経験(人生)から自分を切り離してしまうのは、まったく間違っている。
苦から逃げるのではなく、苦をただ観る(サティ) 苦を受け入れる。そうすれば苦は変化し、いずれなくなる【無常】 しかし、「なくなる」という結果を期待して受け入れてはいけない。それは「受け入れる」ことではない。受容ではなく拒絶である。結果を期待しないで、ただ受け入れる(サティ)
「不快な経験」は やって来て、そして 去っていく。「快の経験」も来て、去る【無常】 それが 人生の全体性である。あるがままにしておこう。
苦から逃げても、苦悩に姿を変えて 追ってくる。逃げるから 追ってくる。どこまでもどこまでも 追ってくる。けっして振り切ることはできない。
逃げれば悩む。
苦(不快)と苦悩(苦を悩む・苦を否定すると発生する) 欲(快:価値判断からではなく、自然な・本心からの欲求:結果は関係ない)と欲望(価値判断に従って「善い」を望む・追求する気持ち:結果が必要)の違いに留意すること。苦と欲(快)はあるがままのもので、ともに等価に味わうもの。一方、欲望と苦悩は人間が(思考が結果を求めて)自分で創りだしたもの。欲望と苦悩はコインの裏表。欲望が苦悩をつくる(欲が苦をつくるわけではない)
(結果を)望めば悩む。
一般的には、仏教では[欲が苦をつくるので、苦をなくすためには欲をなくすべきだ]と教えられている、と思われているようだが、これは誤解を招きやすい言葉使いである。正確には、上記の通り[ 「欲望」が「苦悩」をつくる:逃げれば・否定すれば悩む、望めば・追求すれば悩む:逃げても望んでも悩む:あるがままでいれば悩まない]であると理解すべきだ。
「不快」を避けても「快」を求めても構わない。きわめて自然なことだ。そして、もし避けられないなら、求めても得られないなら、(イヤイヤでなく)諦める。ただ味わう。当たり前の(諦かな)ことだ、と受け入れる。結果はコントロールできない。
為すすべがなく 死ぬほど苦しいと感じるなら、苦しいと言っているエゴが死ねばいいだけだ。
世界を二分し、全体から部分を切り分け、その部分だけに執着すること、二つのうちの一方だけに光をあてることが、「渇愛」 であり 「取」である。それが「部分としてのわたし」すなわち「自我」の在り様である。快という一方だけを経験し、不快というもう一方を経験しない、ということは本来あり得ない。快と不快の両方が揃っているのが、全体である。
快と不快を等価に味わう(中道)のが、(本来の)生きるという経験である。一時的な苦しみもあり、一時的な喜びもあるのが人生であるが、苦悩をなくすことはできる。苦しみを避け、喜びに向うのも自然であるが、それに(価値判断を加えて)囚われ、否定と追求を循環させてはいけない。
悟った生き方とは不快(/快)な経験がなくなることではなく、不快(/快)な経験をしながらもただそれを感じ、「否定(/追求)の循環」という反応につなげない生き方である。否定(/追求)の循環(瞋/貪)こそが苦悩を生み出し、それを永続させる。直面しなくてはならない不快な経験【苦】から逃げ続けないこと。当たり前のことを受け入れること。
誰もが、自分と世界は「善い人・善きもの」であって欲しいと願っている。自分と世界の中に 悪しきものなどあるはずがない、あってはいけない、あったとしたらなくなって欲しい、なくしたい・善きものに変えたいと欲している。
トライするのは構わない。でも無理なら諦めよう。そしてよく考えてみよう。「善い」と考えていたものは、本当の本当に「善い」のか? それは単なるストーリーではないのか? あなたが勝手に創りだした「意味」に過ぎないのではないか? 思い出そう、「あるがまま」に意味などないのだ。
出来事の是非のジャッジを行い、意味と価値を与え、それを追求する思考が、自分自身に対しても同様に作用し、自我( 「わたしの」という感覚:自分と他人は違う、自分だけが特別であるという自己中心的な感覚:分離・限定され、孤立した、視野の狭い自己イメージ)を創りだす。
(誰にとって「善い」のかと)経験を意味づけるため、「わたし」という主体を後づけで生み出した。「〜する」 「〜である」という述語だけでは落ち着かず、誰々という主語を持ち出した。サンカーラ には主体が必要だった。それが、人類が採用した思考(言語)システムである。わたしたちにとって、主語なしで考えることは難しい。
「わたし」という概念を創りだし、世界(客体)とわたし(主体)を切り分けたことが、「分離:無明」の始まりである。
成長の過程で たまたま出会った特定の状況下の出来事から、これは善い(正しい)• これは悪い、これをしてもいい・これはした方がいい・これはしてはいけない、と教えられ・みずから学び、一般化・普遍化し、それを見解・願望・信念とする条件づけ(洗脳)が起こる。
「快/善い」に結びつく要素をまとめて「わたし」とし、「不快/悪い」を呼び起こすものを そこから除外していく。そのようにして、「わたし」を構成する要素(役割・立場・価値観など)を増やし、または減らして、限定され・条件づけされた「わたし【ライフスタイル】」を創りあげる。時代により、家族・社会・国家・文化・言語などにより、さまざまに条件づけされ、鎧をまとった価値や意味の塊としての「表のわたし」ができあがる。
それをもとに、わたしは正しい・あの人は間違っていると判断し、「わたしの物語(ストーリー)」を紡いで行く。そうやって「正しさ」に囚われ、わたしの物語から「嫌な経験」を追い出そうとして「苦しむ」 すると、わたしの物語の中の「表の(善いと思われる)わたし」は、容易に優越感に結びつくことになる。
そして、世の中とはこんなものだという 狭く限定された世界観を創りあげる。世界(観)とは、自己イメージが投影されたものである。
わたしは こう思う、だから 他の人もそう思うべきだ。世界は こうあるべきだ、だけど そうでない世界は悲惨だ、間違っている。などなど…
この自己イメージ(世界)が脅かされるとき、防衛/攻撃体制が発動され、循環が始まる。
この思考(によって生まれたサンカーラ)は自我に対して、もう「いい」もう「十分」という評価を与えることはなく、常に もっと「善い」 完璧な「善い」に向けて自我を駆り立てる。いつもいつも 自分自身に対してダメ出しをし続けて、努力奮闘して頑張れ、向上し続けろと叱咤して止まない。「あるがまま」では 永久に満足しない【自己否定】
そして、自分の自分自身に対する評価だけでなく、他者の自分に対する「善い」評価を求め続ける【承認欲求】
その結果、この自我のシステムが個人を社会に適応させ、その生存を保証することになる。それは 個人がこの世界で生きて行くための必須の機能であるが、適度を知らず、終わりを知らず、「完璧」に向かって、何ものかになろうと、どこまでも暴走し続ける。そして、この暴走(循環)が「苦悩」を生み出すことになる。
つまり、「苦悩」は自我に不可分に組み込まれた特性であると言える。したがって自我(という感覚)が存続し続ける限り、苦悩がなくなることはない。「無常」を逃れようとして、この世を生き抜くために創りあげられた「自我」というシステムは、必然的に「苦悩」を内包しているのである。
上記の価値判断する思考によってつくられた「わたし」(というシステム・感覚)は、緊急避難的・一時的・仮のものに過ぎないと知って、十分注意しながら対処する必要がある。
人間は非常に未熟な状態で生まれるため、親の愛を勝ち取ることなしには生きていけない。そのときまず、人と人との基礎的な関係性が築かれる。適切な関係がつくられず、愛着障害を抱え込むこともある。次いで身体的に生きて行くため、生計をたてるための必要条件として、社会人として経済的に自立するため 自我を確立する必要があり、そこでは 他者との比較・競争が強制される。そのため、自我は個体の生存のために 常に他者より優位に立とうとし、競争に勝とうとしてしまう。
自我(という感覚)は、肉体としての個体が生き延びるための機能であり、機能に名づけられた概念であり、それゆえに 実体のない仮想現実【無我】である。生き延びるために備わった「感覚」に過ぎない。思考【想】が対象を意味づけ、サンカーラ【行】が「わたし」という感覚【識】を生み出している【想→行→識】
自己否定と承認欲求に駆り立てられ、努力し続ける自我は、この地球上でホモ・サピエンスという種が大躍進する原動力となった大発明であり、鳥の翼・象の長い鼻のようなものである。同時に、群れを拡大した社会という機能的な集団内において、秩序を維持するための必須の機能ともなった。人間だけが「わたしという感覚」を持っているのだろう。
しかし それに囚われ暴走し続け、常に他者を敵として認識しているため いつも安心することができず、「苦悩」という代償・副作用を抱え込むことになってしまった。
いつも 他者と比較し、絶えず 優越感か同等感か劣等感を感じ、優越感(傲慢)のときは 心地よく、同等のときは まあいいかと思い、劣等感のときは 慘め(ときに怒りやうつ)になる【縦の関係】 本当の意味で心休まるとき(平穏)がない。
思考により悪しきものと判定された 自分自身の「負の側面」は、否定され抑圧され 無意識の奧底に閉じこめられてしまう。そうやって幽閉された「負のわたし」は大きなエネルギーに成長する。
ときに そのエネルギーは 芸術などの創造の源泉となったり、世俗的な成功をもたらすこともあるが、多くの場合は「影」となって「表のわたし」を脅かし、苦悩として体現される。
その影が個人的なものであれ、集合的普遍的なものであれ、意識の光の下に照らし出し、「本当のわたし」の中に統合されなくてはならない。気づき(サティ)の光のもとで、自らの無意識を意識し、制限されていない・分離されていない自分(全体)になる。限定され小さく収縮・緊張したわたしが緩み、より大きなものへと広がり、全体そのものに到達する。「部分としてのわたし」ではなく、「全体としてのわたし」になるのである。
「善い人のわたし」 や 「悟ったわたし」に留まっていてはいけない。承認欲求のために「悟り」を利用してはならない。「ダメな・嫌な・酷いわたし」を受け入れて生きなくてはならない。状況によって「善い人」のこともあるが、また「悪い人」にもなるのが当たり前だ。いつも「善い人」なんてあり得ない【無常】
不快な感覚から逃げようとすれば、かえってそれが苦悩を形成するのと同じように、「負のわたし」を抑圧・否定することが 苦悩を生み出してしまう。これが 苦悩の発現様式である。ダメなわたし【苦】から逃げないこと。当たり前のことだと、受け入れること。
そうすれば 統合(という目覚め)によって、自分が自分自身だと信じ込んでいた自己イメージが解体され、消滅してしまう。「正しさ・善さ」は限定されていて、仮のものであったと知り、「正義・善きもの」の呪縛から解放される。
自己イメージとは、やってきては去ってゆく 不確かな構成要素の集積に過ぎなかったものを カチカチに固めたものであり、それは 本質ではなかった【無我】 そこに気づけば、自分は空っぽ【空】であり、実体がないことがわかる。本質でないものを取り除いたあとには 空っぽ(広く開かれた空間)が残るだけだが、その空っぽは 実は無限の可能性を秘めている。それは「全体」であり、「存在の基盤」である。
「空」であることは なにか虛しい感じ(ときには恐怖)を呼び起こし、人はそれに耐えられず、「空」であること:何ものでもないことを認めたくないのかも知れない。「わたし」と思っていたものは、本当は実体がなく、更新し続ける世界との関係性・因縁の中から立ち現れた 一過性の仮の概念に過ぎなかった【無我】
統合の過程で、「負のわたし」のエネルギーは感情エネルギーとして放出される【浄化】
しかし、「影」を意識下に置こうとすると劣等感が刺激されて屈辱を感じる(プライドが傷つく)ことになり、この感情エネルギーは ときに怒り・非難・不安・恐怖・うつなどの形をとって、統合に対して激しく抵抗する。その抵抗にジッと耐えて それを観続けること(サティ)ができれば、その感情を正当化し支えている思考・信念・思い込みが 明らかになり、分離(の感覚)は解消される。
そのとき このエネルギーは力を失い、「わたし」は平穏の地平に至る。自分が何ものでもないことを知り、安堵する。「わたしという感覚」が、歳を取ることなく変わらず続いていた 存在そのものに根ざしている「自分自身という感覚」に変わる。
このエネルギーは たった一つのものであり、それが様々な形となって現れる。探求のエネルギーの源も同じものであろう。自己否定が自己受容に変わったとき、真理の探求も終わりを告げる。
ただし、感情がいつも苦悩と関連しているとは限らない。思考や欲求・願望(サンカーラ)に支えられていない、思考と一体化していない、生命の驚異に対する表現としての感情や 真実の穏やかさ・切なさ・荒々しさの表出としての感情もある。
一方、価値判斷を伴わない、サンカーラが生じないので感情と一体化することのない、理に基づいた適切な思考というものも存在する。これは 単にこの世界(此岸)を生きて行くために有用であるばかりでなく、真理(彼岸)に到達するための重要な手段ともなり得る。
しかし これだけで到達することはできず、真理に至るためには逆に、その直前で これを手放さなくてはならない。此岸から彼岸には、泳いで、つまり自分の努力(努力とは自我の特性)で渡ることはできない。
彼岸に至るには、ジャンプする必要がある。やるだけのことをやったなら、あとは思い切って勇気を出し、暗闇の中に飛び込まなくてはならない。すべての努力・意志の力(サンカーラ)を放棄して諦め、努力とはまったく反対のものに任せなくてはならない。それは、完全に負けて武装解除すること。自我の鎧を脱ぎ捨てること。自分の力ではもうどうすることもできないと 降参すること。
そのとき、どんな思考も どんな努力・意志の力も、邪魔者以外の何者でもない。役に立つのは「気づき(サティ)」だけである。そうすると 不思議なことが起こる。思考ではパラドックスとしか言えないようなことが 起こる。
いずれにせよ、思考は便利な道具ではあるが、やはり道具に過ぎない。道具に過ぎないものを、まるで神であるかのごとく祭り上げ、自分の全存在を捧げるのは、もう止めよう。思考(知性・理性)より大切なものがある。
思考のフィルターが外れた ありのままの世界とは、対象・現象・状況に「善いとか悪い」といった「意味や価値」が思考によって付与される以前の世界【空】のこと。存在している世界そのものには、もともとそんなもの(属性)はなかった。人間が勝手に創りあげて、くっつけただけだ。
思考によって意味を与えられた(意味づけられた)世界が「色」 その意味を剝ぎ取られた世界が「空」 無明とは、本来の(思考以前の)世界と自分の本質が「空」であることを知らないこと。
ここでいう「意味(価値)」とは、二分された対になる概念の一方の要素のこと。一方だけが単独で成立することはなく、かならず他方の対照を必要とし、それゆえ相対的であり、否定/追求や比較・競争が発生する【意味=要素:部分】
それは 常に全体の一部でしかあり得ず、実は「全体として存在している」そのことだけにしか 本当の意味はない。ここでいう「本当の意味」とは、対になる概念を持たない絶対的な「意味そのもの」である。
「全体としての存在」 は 「絶対的な意味・無条件の価値」を持っている。だから、存在するものは(全体として)すべてOKである。
⒉ 空即是色:わたししかいない〔実践〕
この世界には 問題となる困ったこと(苦悩)は本来なにひとつなく(問題があるのではなく、「わたし」が否定の「循環」によって問題を創りあげているだけ) ただ対処の必要な状況・出来事だけが存在する。それに対して否定するのではなく、今なすべきこと・する方がいいと思われること・今できることを行う だけである。状況を避けることなしに、自分自身から逃げ出すことなしに、逆に 状況の懐に飛び込むような気持ちで臨む。
そして 状況を支配・コントロールしようとさえしなければ(コントロールできないことを知れば) 因縁の流れが見えてくる。その流れに身を任せれば、今すべきことが 直感的・即興的に分かる。状況がわたしを動かし、その経験の中から「わたし」が立ち上がってくる(因縁によって生まれる:縁起) わたしは 世界の一部であり、同時に 世界そのものである ことが分かる。
結果を気にしない(結果に対しては誰も責任を持ち得ないことを知って、どんな結果であろうと受け入れる覚悟を持つこと)で、他者がどうであれ 自分が適切だと思うこと(自分の課題)を 深刻ではなく真剣に、淡々と行う。
(結果を求める)取引きはしない。サティとともに生きる。
無為とは 無理になにかをするのでなく、流れのなかで自分の行動を決めること。反対に、サンカーラの力で無理になにかをするのが有為(業:カルマ)
サンカーラは 結果を求める。結果を求めるから、結果に不安があるとき、それが「問題」だと感じる。そして カルマが新たな問題を創りだし、問題が「循環」する。
結果を気にしなければ、「問題」はなくなる。
サンカーラが存在しないとき、コミニュケーションも容易になる。結果を求めて状況をコントロールしようとするコミニュケーションでは、(無意識であっても)作戦を立て戦略を練り、反応を見てはそれを練り直す(他者や自分に嘘をつく)といった複雑な対応をしている。
サンカーラがなければ、今の自分の正直な気持ちや考え(真実)を話すだけでいい。 自分の視点だけでなく他者の視点にも配慮し、人間関係の中で正直であれば、状況は自然に流れ、(あなたの望んだものではないかも知れないが)適切な結果があとからついてくる。
単に何を行なったかではなく、誰がどんな状況で経験して、それをどう感じ・どう味わったのか(サンカーラを発生させたか否か) そして どう関わったのか(無為か有為か) それが人生のすべてであり、それ以外の人生など存在しない。それに対する意味づけは、なんでもアリだ。どうとでもできる。囚われることはない。
ただダンスを踊るように、ピクニックを楽しむように、生きることを経験する。踊っているときは 踊ることそれ自体を味わい、ピクニックでは 用意すること・歩くこと・食事することそれ自体を楽しむ。それ以外の目的も意味も 求めない、いらない。「未来」に目的を設定し、「いま・ここ」を手段と化してはいけない。
楽しいことも、そしてときには 辛いことも、それがいのちの神秘そのものであることが分かれば、それ自体を味わい・面白がることができる。楽しいことだけを楽しむのでなく、楽しいことも辛いことも同じように楽しむ(味わい・面白がる) それが 生きるという経験、すなわち「人生」である【空即是色】
とすれば、生きるという経験(存在)が誰に対しても平等であることが分かる。与えられたもの(才能・能力)が何であろうと、それを使ってどのように生きるのか ということの方が大切である。何が与えられているかではなく、それをどのように使うのか。何を成し遂げたか・業績・結果(doing)ではなく、どのように関わったのか・生きる態度・生き方・過程(being)の方が大事だと言える。
存在(関係性)の在り方だけが 問われている。人生への参加の仕方が 問われている。
誰もが その人なりに最善を尽くして生きている。健常者と呼ばれる人たちにとって、コンビニで買い物をすることは 取るに足りないことかも知れないが、あるハンディキャップを持った人たちにとって、お金を払って何かを手に入れるという経験は、生きている奇跡そのものかも知れない。
平凡で退屈そうに見えることの中に、いのちの驚異を感じることができるか? 特別なイベントだけが大事で、普段の何気ない日常は ただの背景に過ぎなく、つまらないものか?
一般的には 芸術的創造や仕事の達成の過程での経験に意味があると思われているようだが、それよりも深く重要なのは、すべての人に平等に与えられる人間関係における経験と言えないだろうか。つまりは 人生という旅の中で、どのように 自分と他者を愛する(慈悲を生きる)のか ということの方が大切ではないか?
「愛:慈悲:思いやり」とは、自分と他者の存在そのもの(being)に関心を持ち、神秘なる存在そのものを受け入れること。
存在の在り方としての 自他のストーリーに関心を向け、その違いを認めた上で、そのままで(ありのままで、いまの自分のままで)いいんだよ、大丈夫だよ、OKだよ、もう十分なんだよと 心の底から納得し、自分と他者に向かって、いまの自我(エゴ)のままでいいんだ と言ってあげることである【自己受容・他者信頼 → 他者貢献】
そうやって 影(ダメな・嫌な部分)ごと受け入れて、互いの幸せを願う【慈】
その時は そうしかできなかった、その時も 最善をつくしてそうしたハズだと、過去も受け入れる。
愛とは受容のことであり、関心を持ちつつも 否定も追求もせず、あるがままを ただ認める態度(サティ)である。自我のそのまま全部を 愛して受け入れ、はじめて自我を超えることができる。
【では 自我が確立されていない場合も、大丈夫だと言ってよいものか? それもOK。今はまだ 自我が不十分でも、かならず自我は成長し、みずからそこに至る可能性を秘めている。それを信じて[サッダー]手を貸す】
その上で可能なら「物語」の中に一緒に入り、「物語」をサポートするのではなく(ときにはそれも必要だが) その中で真実を生きることに目覚めるように手を貸す【悲:苦しみがなくなりますように:他者貢献】 誰もが目覚め・悟れることを信じる。
自分をサポートしつつ 同時に他者も支援する。自分と他者を 等価に思いやる。自分以外のみんなを愛していても、自分自身をそこから排除しているなら(自己犠牲) それは 自己中心性の現われであり、承認欲求に他ならない。愛と自己犠牲(承認欲求)は違う。自己犠牲では、他者の幸せを 心から喜ぶ【喜】ことができない。
他者が私に対してどうであったか(他者の課題)に関わりなく、自分自身のために(自分の課題として)他者に善きことをする。取引きはしない。Give & take ではない。結果も求めない。他人の視線も気にしない【捨】
サティを実践することで 自分の中にスペースができると、それらが すべて可能になる。いつも「慈・悲・喜・捨」を忘れず、それをまた サティのもとにおいておく。
その上で、一緒にダンスする。自分が好ましいと感じる特別な誰かだけを愛するのではなく(条件つきではなく) すべての人とダンスする。ただあるがままに、わたしと世界のすべてを愛する。
そのとき 人間関係は喜びに満たされ、そして 人間関係だけに留まらず 世界との関係が調和の中に統一される。人生の主語が「わたし」から「わたしたち」に、そして「すべて」に変わる。人生とは関係(つながり:interbeing)のことである。
あなたもわたしも、生きとし生けるものはすべて、生老病死の苦しみをともにする仲間である。同じエゴを持つ仲間である。そして同時に、わたしたちは分離され区別されたものではなく 同じ一つの輝かしい本質を皆が持っているのだと気づけば、愛することは容易である。
特別な人など、どこにもいない。わたしたちは 皆すべて等しく、普通の人である。他者の中に、自分自身を見ることができるか? 他者が考えることは、わたしも考えられる。他者が感じることを、わたしも感じられる。わたしは他者を理解できる。それは、もともと他者とわたしが同じだからだ。わたしたちには 共通の基盤がある。
では、誰かの嫌なところを見たとき、それと同じ(不快な)ものが 自分の中にもあることを、素直に認めることができるか?
他者とわたしが同じであることが 心底から理解できれば、他者とわたしの分離(の感覚)は消失し、比較・競争もなくなる。ならば、「他者(世界)はわたしであり、すべてはひとつである」と言い切ってもいいのではないか?
世界とは「わたし」の投影である。したがって、わたしの中の分離(の感覚)が消失すれば、世界の中の分離も消え失せ、すべてはひとつになる。
思いやることは、自我の鎧を脱ぎ捨てること、そして「わたしの物語(ストーリー)」を手放すことにつながる。鎧を着たままでは、真の人間関係を築くことはできないのだから。
人間関係もまた 自分自身の投影であり、そこでこそ 目覚めと悟りの真価が問われる。もはや、傷つくことを恐れて 人間関係を避けることはできない。
わたしたちはみな 本質において同じで(色即是空:普遍性) 現象においてはさまざまに異なっている(空即是色:多様性) 現象(要素)としては異なっているが、本質(座)は同じである。与えられたものや経験・状況は、それぞれにすべて特異である。同じ本質を持ったもの同士が、多様性を携えて 一緒にダンスするのである。
わたしたちは、違ってはいるが 対等である。それは比較による同等ではなく、比較のない対等である【横の関係】 横の関係であれば、「愛:慈悲:思いやり」を実践することは容易だろう。
苦悩(の経験)のみが、真実(存在の価値そのもの)を教えてくれる。何気ない普通の日々を 輝かしいいのちの驚異に変え、いのちの奇跡に気づかせてくれる。そのおかげで、生き生きとした世界を再び取り戻すことができる。「生きているという実感」を持ちながら生きていくことができるようになる。そのとき、苦しみは恩寵に変わる。
ただし、恩寵という結果を求めて 苦しみを意図的に選択してはならない。それは、ただの「苦行」に過ぎない。
そして 感謝の言葉の意味を、深く味わうことができるようになる。「ありがとう(在り難う)」とは、存在の在り難さ・ 「奇跡」への深い想いの表明である。存在している(在る)というそのこと自体が、どんなに素晴らしく カケガイのないものか!
苦しんだからこそ、ここまで来れたのである。でも、もう苦しまなくていいことに、頑張らなくてもいいことに、気づいた。だから、苦しみ(苦悩)を手放そう。苦しみよ、ありがとう。自我よ、ありがとう。本当によくやってくれた。ご苦労さまでした。
自我(エゴ:価値判断)がいつも悪いわけではないし、自我には自我の役割がある。目覚めたとしても、わたしたちは 自我なしではやっていけない。だから、エゴを否定し、消滅させようとしてはいけない。エゴは仮なるものであり、機能に過ぎないということを理解した上で、エゴと仲良くやっていく。ただ、エゴにしがみつくことができないことを知る。
エゴの中だけに生きるのではなく、エゴをなくすのでもなく、エゴを抱えたまま エゴを超える「全体」の中に生きる。自我を確立した上で、しかも自我に囚われず、その自我を超えて生きていくのである【戒→定→慧】
【戒は「健全な・真の自我」を確立するためのもの】
思考によって「善い」と判定されて受け入れられた「表のわたし」の 影に隠れてしまった、「悪い」と判定され 否定/抑圧された「負のわたし」に 光をあてる(無視しないで関心をもつ)ことによって、その二つの対立を解消できれば、「分離した自我」が統合され、完全な(善/悪の要素をすべて認めた)自我になる【真の自我の確立】
ところで、本当のわたしを構成する要素は、自我(心)だけでなく 身体、そして わたしと関係のある外部の存在のすべて(社会や自然環境:それは生存に必須の条件であり、「わたし」と常に相互依存し、因縁の絆で強固に結ばれている)である。
それらすべての要素に公平に関心(social interest)を寄せ、それらと それが存在する「広く開かれた空間としての本質:基盤」をさらに統合することによって、「分離したわたし」が統合され、真の実在【自我を超えた存在:大いなるもの】となる。
「真の実在:本当のわたし」とは、本質だけのことではなく、「要素(色)」 と 「本質(空)」の両方を備えたものである。
思考のフィルターが外れた「ありのままの真実」は、もしも言葉で表現するなら 喜びと安らぎに包まれた平和な世界であるが、同時に 悲しくて虚しく切ない世界でもある。言葉の世界は相対的であり、対になる概念で常に相殺される。
したがって、ありのままの真実である「空の世界」 を 「至福」という言葉だけで表現するなら、それは誤解を招くことになる。「目覚めの一瞥」のような体験で直接感得した「空の世界」 を 「至福」と感じるのは、単にそれを経験する直前のネガティブな状態とのギャップの大きさと、変化の急激さによるものであろう。
「空」は本来 中道・ニュートラルで、ポジ/ネガ・是非などの対になる意味を持たない・裏表のない・対立しない・二分されない・相対的でない(非二元の)世界である。もちろん「空」は、「苦悩」を内包した「我」というシステムが崩れ去った世界であるから、苦悩が存在しないという意味で たしかに「至福」であるとも言える。
分離の消失【空】を一瞬体感する一瞥(一時的)体験は、真理を目撃したという意味で、大変貴重な体験であろう。それは、進むべき方向をしっかりと指し示してくれる導きの星となりうる。しかし、真理【空】の認識が人生のすみずみにまで浸透し、日常生活【色】に十分反映されていないのならば、決して その歩みを止めてはならない。目覚めの日常化・真理の浸透は、生きている限り永遠に続く 内なる変革の過程である。
「目覚めた、ここがゴール、これで終わり」と思った瞬間に、その人の人生は 本当に終わってしまう。終わりのない 変化し続ける歩みという、一瞬一瞬の中に生き続けることが、「本当に生きる」ということだ【無常を生きる】
真理とはなにかを理解することを「目覚め」と呼ぶなら【色即是空】 目覚めは人生のゴールではなくスタートである。目覚めたのちどう生きる(実践する)のか【空即是色:空を生きる:空に裏づけられた色をどう生きるのか】 それが「悟り」の意味するところであろう。
目覚めにより、「あるがまま」の受容が(理解として)可能になる。すべてがOKと知る。しかし、目覚めは悟りではない。実際の人生(日常生活)とどう関わるのか、(実践として)どう受容していくのか。「悟り」とは そのプロセスのことである。
目覚めたのちの生き方は「遊び」のようなものだと言われる。それは、まるで遊ぶがごとく・気負わず肩肘はらず・結果を気にしないで淡々と、しかし なおかつ 真剣に「いまここ」を生きる、というような在り方【リーラ】であろう。やりたいように やればいい。
「悟り」を生涯の主目標として修行し・目覚め・そして それを深めた人、または突然に・強烈で・不可逆的な目覚めを経験した人は、「スピリチュアル・ティーチャー」となる道を選ぶことが多いようである。「悟りを伝える」ことが彼らの「悟った生き方」となり、その「伝え方」は様々である。
一方、悟りなど 必要としない人々もいる。目覚めや悟りという言葉を使わず、特別な修行をしなくとも、人生にとって もっとも大切なものは何かと誠実に追求し、それを理解し、普通に暮らしている人たちが 大勢いる。凡夫などと一括りにしてはいけない。平凡な日常の中に悟りがある。自分が悟ると、周りがすでに悟っていたことに気づく。
「悟り」を なにか特別なものとすべきではないし、それは 声高に叫ぶものでもない。難しいことは何もなく、本当はシンプルなこと。理屈でわかっている当たり前のことを 骨身にしみてただ当たり前だと認め、それを実践するだけのことである。「悟り」を、けっして承認欲求の手段と化してはならない。
たかが人生、されど人生。
『しょせん、すべては小さなこと。小さなことにくよくよするな』〈カールソン〉
しかし その小さなことの中に、どれだけの幸せを感じることができるか?
世界と人生に意味などないが、人間は 意味なしでは生きていけない。
⒊ あるがまま
本当のところ、悟った人はいないし、悟っていない人もいない。わたしだけが悟っていて、他の人が悟っていないということもあり得ない。特別な誰かなどどこにもいないし、すべての人が特別である。
存在している(存在を許されている)ということは、すでに愛されている・受容されているということ。愛する・愛せない、受容する・受容できないというのは可笑しなこと。「わたし」が受容する前に、すべてがすでにもう受容されている。
気づいていようがいまいが、すでにもう受け入れられている。それに気づくか、気づかないか。
気づくと、世界がシンプルであることがわかる。「あるがまま」で、そのままでよかった。逃げも隠れもせず、初めから ずーっとそうだった。
真理の立場から言えば、悟っていようがいまいが どちらでも構わない。苦悩する人生もアリだろう。究極のところ、すべてOKだ。 L e t I t B e !
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい
はらそう ぎゃてい ぼじそわか
〔最終稿:2018年3月18日〕