なんだろうなぁ。

人に優しくするのって、結局自分の為なのかなぁと最近思うようになってきた。
人に優しくしなさい、っていう事自体がもう不遜じゃないか、と。
優しくしないと「いけない」という事を、「しなきゃね」と誰かに思い出させて
もらわなきゃいけないわけで。
「人に優しく」と唱えなければいけないのなら、その時点で
心から自然に湧き出てくる感情でも、体が勝手に動く行為でもないだろう。

今、人間関係で悩みに悩んでいる大切な友達が居て
この電話嫌いな私が
毎日1時間でも2時間でも相手の気の済むまで電話で話をしている。

友達のその落ち込みっぷりったら見ていられない。
このまま病むんじゃないかと思う程。
本気で可哀想だと思うし、何とか力になりたいとは思う。
でも、その人自身の力ではどうにもならない外的要因も相まっていて、
今はどうにもならない時期だと第三者の私は思っている。
あれこれ手を打とうと思っても、打つ手自体が無いのだ。
でもここで
「人生そういう時期は誰にでもあるんだよ。今は頭を低くして、
じっと息をひそめて嵐が頭上を通り過ぎるのを待つしか無いよ」
って正直に言って良いものなのかどうか。
前を向けないのなら下を向いておけ、なんて、
落ち込んでる人にとどめを刺すような言葉じゃなかろうか。
身動きが取れないなら取らなければ良い、とはある意味正論なのかも
しれないけれど、その人の聞きたい言葉ではないんじゃないか。

ここで、親切とは何ぞやとまた自問する。
正論でもってして、現実を見せてあげる事が親切なのか、はたまた
相手の聞きたいであろう言葉を察し、嘘にならない範囲で
聞かせてあげる事
なのか。

その人の事を思い、心配は本気でしているけれど、その中でちょくちょく
あれ?これって、こちらがイイ人になりたいだけなんじゃないの?
後々”辛かった時に側に居てくれた友人”になりたいだけなんじゃないの?

という自問が顔を覗かせるのだ。
で、結局
「あれ?相手にとって優しくしてるつもりでも、
それって結局自分の為?」

となる。

滅私奉公なんて私には無理。それは重々理解している。
だったら、「人に優しく」という刷り込みのせいであれ、
自分がイイ人になりたいという邪な考えのせいであれ、
意識して人に優しくしていくしかないんだろうなぁ・・・。

こんな薄っぺらい優しさって、透けて表に出て来て他者にバレたりしないんだろうか・・・。