初期対応が不十分だったことは否めない。しかし、現場の作業員の奮闘には敬意を表するべきであろう。

福島原発の沿革 

東京電力は福島県大熊町、双葉町に福島第一原子力発電所を、楢葉町、大熊町に福島第二原子力発電所をつくった。それぞれ1971年と1982年である。第一の概要は資料B2を参照されたいが、いずれも沸騰水型軽水炉(BWR)*でマーク1(6号機はマーク2)と呼ばれるが、のちにGEの設計したマーク1には欠陥があるとされる。BWRは1次冷却水が放射能を帯びているのが欠点といえる。第一原発1-4号機は営業許可から40年経過して10年間の更新認可がおりたばかりであった。

全電源喪失

 地震が起きたときに、福島第一原子力発電所の原子炉は1-3号機が稼動中で、4-6号機は停止中で使用済燃料棒プールのみ稼動中であった。3号機の燃料には少なくとも5%のMOX燃料*が混在していた。

1-3号機では自動的に制御棒が挟まって核分裂反応は停止した。地震で主電源がオフとなり、予備電源も1-6号機の13のうち、6号機の一つしか動かなかった。というのも波高4-5m、遡上高14-15mの津波によって海側の地下に設置されていた予備電源室は浸水し、機能が途絶したからである。

バッテリーが働いて3時間は冷却ポンプも作動したが(地震と津波の物理力による配管の損傷もまったく否定できない)、バッテリーが放電したときには電源喪失状況となった。

 なお、第二原発の地震計は水平方向550gal、垂直方向301galの加速度を記録した。

止める・冷やす・封じ込める」

 3月11日17時の電源喪失の時点で原子力安全保安院*(以下保安院と略す)は炉心融解の危険性を察知した。19時30分には燃料棒が露出し、21時ころには燃料棒の溶融が始まった。3月12日2:45には1号機の圧力容器内圧が7MPaから0.9MPaに急降下した。圧力容器を通る燃料棒挿入路に剥がれがおきたものと推察された。6:50にはメルトダウンとなった。そこで、手動による冷却が考慮され、また圧力容器内の温度上昇による圧力上昇を回避するため、12日9時に1号機のウエットベント*に着手したが、暗闇と放射線の中の作業は困難をきわめ、その成功は14時にずれこみ、時遅くその1時間半後には水素爆発がおきて、建屋が吹きとんだ。

また12日には3号機でドライベント、13日に2号機でドライベント*されたが、14日11時には3号機で、15日8時には2号機でも水素爆発*が起きた。この時点では保安院の見解はINES*レベル4であったが、実際はレベル6に達していたというべきであろう。また冷却には真水ではなくて海水が使用されることになった。4号機は15日になって3号炉から逆流してきた水素で水素爆発をおこした。

3月20日には赤外線で表面温度測定が行われ、3号機が1番温度が高いものの、126度にとどまっていた。同日、外部電源を東北電力の送電線から引き始めた。

住民の退避

3月11日には第1原発で3km内退避とされたが、3月12日夜にはさらに20km内の大熊町、双葉町、楢葉町、富岡町、広野町の退避が決まった。第2原発は10km以内の退避となった。3月15日には第一から2030km圏内が屋内退避となったが、生活必需品が届かないこともあり、3月28日には自主退避となった。しかし、退避勧告にしないといろいろな面で不都合が生じる。日本政府は30km退避(2030kmは屋内)に対し、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の各政府は滞日本国人(米軍救援隊員を含む)に50マイル退避を勧告したが、どちらが正しいというより規則の問題である。しかし、本来は大きく退避しておいて、徐々に戻るやり方のほうが逐次退避範囲を広げるより望ましい。

大熊町では3月末でも、200μSv/hの空間線量率(資料B9参照)が観測された。積算放射線量は浪江町で13.4mSv、飯舘村で7.8mSvとなったので、年間20mSvとならないように配慮して、4月11日には避難区域が拡大し、飯館村、浪江町、葛尾町、南相馬市の一部が計画的避難地域に指定され、4月22日には犯罪防止等のため災害対策法**による警戒区域に指定された(巻末避難地図参照)。

川内町、川俣町、田村市、南相馬市の一部が緊急時避難準備地域に指定された。避難住民に対しては28,000戸の仮設住宅が8月末までに完工される予定である。

環境汚染

燃料棒*プールを冷やすための放水は、最初自衛隊のヘリコプターから7.5トンずつ4機が試みられたが、的をはずし、その後警視庁の放水車が試みて失敗、結局東京消防庁の特殊放水車が成功した。

 冷却水投棄場所付近の海水からI-131(資料B8参照)が1250倍ないし1850倍の濃度で検出され、明らかに炉心由来の放射性同位元素が放出されていることがわかった。3月25日には、米側からの海水では塩分で回路がつまるというアドバイスを受けて真水の注入が始まった。3月26日には3号機建屋のたまり水表面から400mSv/hの、また3月27日には2号機のタービン建屋*のたまり水表面から1000mSv/h以上の線量率が検出された。いずれも作業の継続を困難にする状況であった。

なお、たまり水の水位は3、4号機では150mに達しており、その強い放射能から格納容器が破壊されていることが推察された。I-131濃度は2号機で10万倍(1900Bq/kg)、3号機で1万倍であった。2号機の圧力容器とつながる圧力抑制プールが早期に破壊されていたことの結果であろう。この時点で保安院の見解はレベル5であったが、すでにINES*レベル6に達していたというべきであろう。

退避区域の病院ではレントゲン写真に黒点が生じたことからみて、放射能が異常に高いことは間違いない。

土壌からもI-1311,600倍の放射能が検出された。3月28日と4月12日にはそれぞれ土壌のプルトニウム、ストロンチウムが測定され、微量を検出した。瓦礫表面からは1,000Sv/hの線量率が観測されており、4月10日には無人機での片付けが始まった。

 放射性物質は風向きで北西の方角50km内にかなり落下した模様である。事実40km北西の飯館村では土壌からI-1312000Bq/m3の放射能(資料B9参照)を検出して避難区域外だが問題となった。またCs13726Bq/m3観測された。地下水からも430Bq/m3のI-131が観測された。

 60Nq/kg以上の汚染のある地域は800km2に達した・

 4月5日には低濃度と称する汚染水15000トンを海に放出した。近隣諸国への事前通告もなかったことから、国際海洋法条約違反の疑いもあり、この時点から日本への同情は非難に変化し、科学先進国日本が原発事故を処理できないのかという失望が聞かれるようになっていった。しかしよく考えるとより高濃度の汚染水を流さないため貯蔵するスペースを確保することが目的であるから適切な判断だったといえる。

3月12-14日の水素爆発*によって相当量の放射性物質が飛散し、それが主となって近隣はもとより、国内、国外にまで放射能の増加が認められた。その後も放水した水が燃料棒*の破損から流出した放射性物質を含んで、次々と外部に放出されている。3月15日には3号炉建屋近傍で400mSv/hを観測している。

 したがって、現在国民にとって問題なのは、原子炉の炉心の放射能によって近傍で測定される線量率*ではなく、飛来物の放射能、すなわちI-131Cs-137である。それゆえ、原子炉建屋*をなんらかのもので被覆することも一つの対処法であろう。

 同心円状の退避でいいかも問題である。40kmの飯館村や60kmの福島市の線量率は高く、このまま続くなら現在の規準では退避が必要となる。飯舘村南部では4月10日に20mSv/hの線量率が観測されている。校庭土壌も30,000Bq/kgの汚染を示した。のちに校庭での線量率は3.8μSvhが上限とされた。地表から5cm以内の表土に90%の放射能が残存したので、217か所の校庭などで表土の除去や埋め込みが行われた。

WSPEEDIのデータによると、東京都を含む600km2の土壌が1-5Ci/km2の汚染をしており、チェルノブイリ事故での第3区域に相当するという。郡山市の小学校では校庭の表土を除去して、線量率が3.3μSv/hから0.9μSv/hに下がったという。汚染土は原発敷地に戻すのが筋であろう。