次に、福島原発事故を記述する前に過去の世界的な放射能事故についてみておきたい。

キシュテム事故

 ウラルのオジョルスクにあるヤマークでは原子爆弾用プルトニウムを生産する原子炉5機と再処理施設が稼動していた。当時放射性廃棄物の危険性が認知されていなかったため、廃棄物がテチャ河やカラチャイ湖にそのまま排出されていた。

1957年9月29日炉心の冷却装置が故障し、炉心が溶融して放射性物質が幅9km長さ105kmにわたって撒き散らされた。INES(資料B10参照)レべル6の原子力事故である。約1万人が避難し、0.51Sv被爆した。周囲で牛乳の出荷停止がなされた。

この事故は1989年9月20日に「グラスノスチ」で公表されるまで秘密にされていた。

ウィンズケール事故

1957年イギリスのウィンズケールの再処理施設セラフィールドで事故がおきた、燃料放出のさいに、減速材*である黒鉛が熱を持って溶融し、7.4x10e14Bqのヨウ素が周囲を汚染し、周辺住民が許容量の10倍被爆した。INESレベル6である。その後数10人が白血病で亡くなった。

スリーマイル島原発事故

 1979年328日ペンシルベニア州サジョナハ川の中島であるスリーマイル島の原子力発電所2号炉(加圧水型*)が営業運転開始3か月後であった。脱煙筒のイオン交換樹脂を再生するための移送作業中、樹脂がつまり、水が空気系に浸入したため、給水ポンプが停止し、同時にタービン*が停止した。そのため、炉心圧力が増加し、安全弁が開いた。ところがこの弁が開いたまま固着し、冷却材が蒸発して失われていった。スクラム*(緊急停止)が発動されたが、冷却水はすでに沸騰しており水位計が過剰水位を誤表示したため、非常用冷却装置*が手動で停止された。このため、炉心の3分の2が露出されメルトダウン*がおきて、燃料の45%62トンが原子炉の圧力容器の底にたまった。

周囲に放射性希ガスが9.4x10e16Bq、I-1315x10e11Bq放出され、周辺住民が0.011mSv被爆した。INES*のレベル5の事故であった。

チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日現ウクライナのチェルノブイリ原発4号炉でおきた事故で、原爆500発分の放射線物質が撒き散らされた。INES*のレベル7の大事故である。

この原発は黒鉛減速沸騰水圧力型*であった。つまり黒鉛を冷却材として、沸騰水でタービンをまわす。しかし、これには欠点があって、減速材*で緊急停止すると、水が沸騰して気泡ができて冷却がうまくいかなくなるのである、ここが致命的な設計ミスであったことが後に報告される。

 当時4号炉は停止中であり、原子炉が止まった場合を想定して実験を行っていた。実験とは、原子炉停止で電源が停止した短い間に発電を確保するというもので、定格出力を20-30%まで落とす予定が1%まで落としてしまった結果、電源喪失*となり冷却ができなくなって、暴走した。しかも、この時期の原子炉には格納容器がなく、放射性物質はむき出しになり、緊急停止ボタンを押した6秒後に爆発した。以上が公式発表であるが、調査関係者が不審な死を遂げていることなどから地震説も根強く残っている。

ソ連政府はパニックを恐れ、事故を公表しなかったため、付近の住民が放射能を浴びた。翌日スウェーデンの原子力発電所が放射能を検出し、ソ連政府も4月28日公表に踏み切った。爆発後も火災が止まらず、消火活動が続いた。ソ連のとった対策は、減速材としての鉛や硼酸の炉心投入、液体窒素による冷却である。これが奏功して、10日後の5月8日には漏出は終わった。

さらに80万人の労働者が借り出されて、コンクリートで封じ込める作業が行われた。これを石棺*とよぶ。発電所周辺は強い放射能のため居住不能となり、16万人が移住を余儀なくされた。事故発生から1ヶ月までに30km以内の住民が移住した。

犠牲者は運転員消防士あわせて33名のほか、軍人炭鉱労働者に多数の死者が出た。30km以内の住民の被爆は33mSv(外部20+内部13)。I-131の影響で小児甲状腺がんの発病率が200倍(実数5000人)にのぼったほか、発ガンにより超過死亡はISEADによると4000人と推定された。INESレベル7の過去最大の原子力事故であった。