職務であるか否かを問わず被災者への救援は力強く行われたが、役場自体が被災したこともあり、司令塔は迅速に機能しなかったきらいがある

自衛隊や米軍の活躍

捜索と救出には自衛隊、海上保安庁、警察、消防隊が活躍した。自衛隊は菅総理の鶴の一声で104000人の自衛隊員(陸上災害部隊70,000、海上災害部隊15,200、航空災害部隊21,300、原子力災害派遣部隊500)と航空機536(ヘリ214、飛行機332)機、50艦船が参加した。自衛隊の活動実績は、1か月で人命救助19247人、遺体収容8088体、補食199万食、入浴サービス20万人、道路修復765km。物資輸送540トン、医療給付11643人にのぼった。

警察官は最大12000人が救援にあたった。

米軍からは早期に救援の申し出があり、空母ドナルド・レーガンは太平洋沖に待機した。山形空港を基地に海兵隊を中心とする18000人と15隻の艦船、140機の航空機が「Tomodachi作戦」として参加し、仙台空港を復旧し、水7700トン、食糧300トンを提供し、物資650トンを輸送した。

 なお、自衛隊と消防隊の殉職者がそれぞれ3人、1人確認されている。

くの行方不明者

阪神大震災と比べると行方不明者の割合が極めて大きいのは津波、引き波*で海に流されてしまったからであろう。道路の寸断や、原発付近の放射線が妨害となって、救出あるいは行方不明者の捜索がはかどらなかった。

4月1日からは、大潮に合わせて日米協同で沿海の水死者の捜索が行わ、78遺体が収容された。削除4月10日には再度集中捜索が行われ99遺体が収容された。4月26日には米軍の集中捜索でさらに112遺体を発見した。

海上保安庁も209人の遺体を収容している。

救援活動

阪神大震災との比較では物資の避難所への到達が遅かった。

 物資は県庁などにはかなり早期から届いていたが、避難所に出回るのに時間がかかった。それは被災地が広範であったこと、携帯電話などの通信が途絶していたこと、燃料のガソリンがなく、道路が寸断されていたなどのためであった。不足物資としてはそのほかに灯油、食物、水、割り箸。生理用品、目薬、下着、ゴミ袋、洗剤、洗濯ばさみ、ハンガー、シャンプー、ダンボールさらには棺桶である。

また、避難所間での格差も問題になっており、いまだにパンとおにぎりしか食べられない避難所もあるという。夏が近づくにつれて夏物衣類や殺虫剤消臭剤の需要が高まっている。

 物資輸送にも米軍の協力が目立った。陸の孤島となった避難所にヘリで物資を輸送する姿が放映された。

 阪神と比べて広域だったので風呂の確保も遅く、1か月以上入れない避難民も5%いた。

避難所

 2481箇所の避難所にピーク時で50万人が滞在したが、1ヶ月後になっても15万人、2か月後で10万人がなお暮らしている。県外避難は福島県で多く、新潟県への8024人をはじめとして全都道府県で34000人に上った。それに伴い転校生も1万人を超えた。

ペットが避難所に入れないため、壊れかけた自宅に留まる人や、車で避難した人もかなりあった。原発の避難地域にも60人が今なお生活している。時とともに若い人から自立をはじめ、避難民の高齢化が見られ、特に夏の暑さが問題となる。

避難所には芸能人などが慰問に訪れたが、プライバシーが守られない点が問題で、英国から提供されたテントが一部で役立った。避難所では飲酒やレイプなどの問題も出てきている一方、避難者とボランティアが結婚するなど明るい話題もある。

東京都の赤坂プリンスホテル、味の素スーパースタジアム、東京武道館、も期限つきであるが利用された。

 避難後に寒さなどで死亡する震災関連死亡も少なくとも282人に達した。老人の要介護も増加も問題点であろう。

 避難所からの救急搬送は2,800人に達している。被災から2か月経過してもなお2000か所以上の避難所が開かれているが、そのうち210か所でがけ崩れなどの二次被害の可能性がありことが指摘されている。

 悪臭も大きな問題で、汚泥、ヘドロや腐敗した魚などが原因である