序章 過去の大地震と津波

 今回東北関東の太平洋岸を襲った地震の震源地は地震多発地帯であり、弥生時代から数百年おきに大地震をおこしている。そこで過去の地震を調べることからはじめよう

 過去の地震は史料の記述のほか、地層を調べることによって明らかにすることができる

三陸沖の地震

海岸の地層を調べた研究から、三陸沖の大地震は400-800年おきに起きている。最初は紀元前400年、ついで紀元後400年、そして以下に述べる貞観地震、慶長地震の順である。

貞観地震は平安時代中期の869年7月9日、陸奥国の沖合を震源として起きたM8.3以上の地震。津波被害が大きく、1000人が死亡したという。この5年前に富士山では貞観噴火があった。

 慶長三陸地震は1611年12月2日三陸沖で発生したM8.1の大地震。地震そのものの被害は少なかったが、津波による死者が多かった。

明治三陸地震は1896年6月15日、釜石市東沖200kmを震源とするM8.28.5の大地震で、最大震度は3。地震による死者はなかったが、リアス式海岸である大船渡湾を中心とする津波(最大38.2m)によって21959人が死亡した。津波の第1波は地震の30分後に到着したが、当日は朝から同じような弱い地震が続いていたので、また日清戦争の凱旋式典の最中であったことから、すぐに高台に避難せず、被害が大きくなった。北米プレート*と太平洋プレート*が幅50km、長さ200kmにわたって5-6mゆっくりずれたために津波も大きくなったと考えられる。

昭和三陸地震は1933年3月3日、釜石市東方200kmを震源とするM8.1の地震で、死者不明3,064名、負傷者12,053名を出した。津波の最大遡上高が現大船渡市綾里で28.7mに達した。

 岩手宮城内陸地震は2008年6月14日仙台市北方90kmの岩手県内を震央としておきたM7.2の地震で、最大深度は奥州市と栗原市の震度6強、栗原市では水平震度*3866gal(観測史上最高)を記録した。 死者17人行方不明6人、負傷者448人を出した。

東海、南海地震

 元禄大地震は1703年12月31日千葉県の島崎付近を震源としておきたM8.1の東海大地震である。関東大震災と同じ海溝型*の地震で、死者2300人、倒壊家屋8000戸であった。津波が鎌倉から熱海まで襲った。

宝永地震は1707年10月28日、紀伊半島沖の南海トラフ*を中心におきた大地震である。M8.48.7、静岡から大阪、四国西部まで震度6以上、高知市南部では20km2にわたって地盤が2mも沈降した。また地震によって道後温泉の出湯が145日間も止まった。49日後に富士山の側面で噴火がおこり、江戸に火山灰が積もった。津波も下田から土佐まで2.58mを記録した。被害は死者2万人、倒壊6万戸、田畑損壊30万石と言われる。

いわゆる東海、東南海、南海の3連動地震は200年おきに起きているが、最初の記録は仁和地震、ついで正平地震(資料A4参照)、そして最後がここに記した宝永地震である。

安政地震は1855年におきた東海地震である。東海地震は今後30年間に87%の確率でおきるといわれている。

元禄、宝永、安政いずれも相模トラフが震源であり、次に述べる関東大震災と同じである。

関東大震災

1923年9月1日、相模湾北西沖80kmの相模トラフ(北米プレートとフィリピン海プレートの境界面)を震源としたM7.9の直下型*の大地震がおきた。広義の東海地震の巨大なものである。その被害は死者行方不明者105,000人、負傷者103,733人、避難人数190万人、住宅の全半壊25万戸、焼失45万戸であった。 

江戸以来の火事に弱い都市計画が露呈された。第一次大戦後の陰りを見せていたわが国経済に甚大な打撃を与えた。また直後の朝鮮人が井戸に毒を入れたなどの流言蜚語が広まり、社会混乱をもたらした。後藤新平を長とする帝都復興院が3日後に設置された。

沖縄の地震

沖縄の八重山地震は1771年4月24日、先島諸島に発生した。明和の大津波とも称せられる。M7.4と推定。フィリピン海プレートがユーラシアプレートに沈み込んだところでおきた。大津波により、宮古、八重山列島で死者12000人、家屋流失2000戸を出した。

沖縄の地震としてはそのほかに、1901年の喜界島地震がM8.1と大きかった。

濃尾地震

 1891年10月28日濃尾平野の根尾谷断層による日本最大の直下型地震、M8.0。被害は死者7273人、負傷者17175人。震源近くでは木がすべて倒れて禿山になったという。余震が詳細に研究されて大森公式*ができた。

北海道の地震

十勝沖地震は1952年3月4日襟裳岬東方沖50kmの深さ54kmを震源とするM8.2の地震。最大震度は池田町、浦幌町の震度6。33人が死亡行方不明、霧多布では津波による多数家屋が流出。 1915,1968,2003年にも同じ場所を震源として地震  がおきているが、特に2003年には長周期地震動*で苫東の石油コンビナート火災が誘発された。

北海道南西沖地震は1993年7月12日、奥尻島北方沖の日本海海底でのM7.8の地震であり、最大震度6が記録された。奥尻島には遡上高30mに及ぶ津波がおしよせ、火事津波で死者行方不明230人を出した。25日後にM6.3の余震*がおきた。青苗地区には地震後、防潮堤、人工地盤、高台住宅などが作られた。

北海道東方沖地震は 1994年10月4日、根室半島沖200kmを震源とするM8.2の大地震であった。海洋プレート*内地震である。釧路厚岸で震度6、根室、広尾、浦河、足寄、中標津、羅臼で震度5を記録した。被害は択捉島で死者・行方不明11人、1万人がロシア本国に避難した。釧路市で負傷者437人、倒壊家屋7,504棟、津波は根室市花咲港で1.73mを記録した。

日本海側の地震

 福井地震は1948年6月28日、福井県坂井市を震源とした内陸地震、M7.1だが、死者行方不明者3,769人に達した。全半壊48,000戸、福井平野の地盤が弱かったことが被害を大きくした。また、戦後初めて治安条例が施行された。

1983年5月20日日本海中部を震源とするM7.1の地震がおこり、余震*もM6.1と大きかった。

 2004年10月23日には、中越地方を震源としたM6.8の直下型地震がおきた。最大震度は新潟県川口町で7、震度5以上の余震が18回おこり、死者68人、被害額3兆円にのぼった。上越新幹線が脱線したことも特記される。柏崎原発は火災を起こしたが、INESレベル3事象で何とか持ちこたえた。冬季の地震であったため、被災者の避難所生活は難儀を極めた。

2007年7月16日には新潟県沖を震源とするM6.8の地震がおき、死者15名、負傷者2,345名を出している。

阪神淡路大震災

1995年1月17日、淡路島北部沖の明石海峡を震源としてM7.3の地震が発生した。結果、死者6,434人、行方不明3人、負傷者43,792人の大惨事となった。主な死因は倒壊した築30年以上の木造建造物の下敷きとなったことだった。1981年の建築基準法改正以後の建物はほとんど無傷だった。直後死5500人の内訳は、窒息圧死が77%、焼死熱傷が9%だった。

復興対策本部は小里貞利議員が、復興委員会は下河辺淳氏が主宰した。

物的被害では阪神高速鉄道神戸線の倒壊がセンセーショナルで、多くのRC建造物も倒壊した。家屋の全半壊25万棟、焼失7,500棟に及んだ。被害は工場地帯の長田区で強かったが、二次的火災も原因した。被害額は10兆円にのぼり、国内外から1600億円を超える義援金*、多くのボランティアが集まった。