6. リスクリテラシー

リスクは定量化されることで国民に知らされるが、それが科学的な測定によって検出される場合には偽陽性、偽陰性という問題がある。偽陽性とは真実は陰性なのに、測定上は陽性に出る場合であり、偽陰性とは真実は陽性なのに測定上陰性に出る場合である。前者ではリスクを過大評価し、後者ではリスクを過小評価することになる。リスクの過大評価の程度が大きいと風評被害にもつながる。リスクの大きさと質について正しく伝えることがリスクコミュニケーションであり、ときにはこれは相互的な対話によって成り立つ。 

基本的な統計学のリテラシーも必要であるし、疫学的リテラシーも必要である。つまり複数の事象が同時に起きた場合にその因果関係の有無について考察し誤らないことが大事だからだ。 

一方、リスクについて見識を持ちそれにどう冷静に対処していくかを学ばねばならない。たとえば年間少なくとも5,000人が交通事故で死亡するが、われわれは鈍感になっていて、時々飲酒事故や交通遺児の問題がクローズアップされるだけである。では、交通事故はどうすれば減らせるか?速度違反が原因と考えられるものは、リミッターで自動車の速度が必要以上に出ないように規制すればいい。歩行者事故が原因なものは、車道を完全分離すればよい。しかしいずれも不都合があり、前者は高速走行という効率性を害するし、後者は費用的問題がある。したがって、許容できるリスクのレベルを設定する必要がある。学問的には危険効用基準、費用効果基準、消費者期待基準、標準逸脱基準などに分類できるが、それらを総合した社会的合意形成が必要であろう。

定量的な評価が必要な例として、心臓突然死防止のためのAED(体外式自動除細動装置)がある。病院外での不整脈死は年間2万例程度と推定されているので、常時500人を収容する施設でもAEDが必要となるのは10年に1回である。したがって、運動施設以外にAEDを設置しても機械の安全期限を徒過することになりかねない。況や、従業員の訓練や機械の保守管理をしなければ無意味であろう。

このように多くのリスクは合理的に防止対策を考えることが可能であるが、実際に対策を行うかどうかはリスクの程度と確率にかかっている。しかしおうおうにして私たちは交通事故のように慣れたものに対しては甘くなっていても、新たなリスクあるいは人工的なリスクにはきびしい。とくに医療や食品のリスクにたいして許容範囲が狭い。日本人が世界でもっとも健康に気を使う国民である所以である。また原子力についてもその事故の確率はきわめて低いにもかかわらず、唯一の原爆被害国であるためかきびしいということができる。核武装に反対な国民が多いのも平和主義だけでなく、放射能に対するアレルギーが大きいからであろう。

 ゼロリスクは理想ではあるが、それを究極まで追い求めることはコストがかかりすぎるのと、現実生活を破壊しかねない意味において有害である。現実生活を破壊しかねないとは、わかりやすくいえば、外に出て自動車にひかれるのがいやだから家に閉じこもるというようなことである。

そういう意味でリスクをまったく許さない国民性の改善も必要であって、各論45(予防注射によるB型肝炎感染事件)、49(HIV輸血感染事件)、77(BSE問題)などの健康問題ではその問題点が顕在化している。老人がもちをのどに詰まらせてももち製造者を責める人はいないが、幼児がこんにゃくゼリーをのどに詰まらせると製造者が責められる。この一事を見てもわれわれのリスクに対する評価がいかに感情的であるかわかるであろう。

また、現在日本が経済的に追い詰められているのも、リスクをおかさない経済手法が現代のグローバルな世界にマッチしなくなったと言っても過言でない。人事考課における減点主義などもリスクを回避することにベクトルが歪んでいる一例である。実は技術的な事故と事務的な事件の原因にも共通性があることを指摘しておきたい。