私はティーチングアシスタント(TA)として「American Social Problem」という、大学1年生が最初の方に受ける科目を担当したのであるが、これが本当に困った。
この科目は文字通りアメリカの社会問題を扱うのであるが、たとえば人種問題、貧困、銃規制といったテーマである。そして、これらの問題を深く理解する・議論するというパートと、社会問題を調査するためのテクニックを学ぶというパートに分かれていた。調査のほうは論理的思考だったり、統計だったり、明確な答えのあるテーマなので、言語が不自由な私でも比較的教えやすい。
他方、人種問題、貧困、銃規制などを深く理解したり、議論をするというのは本当に参ってしまった。議論するには高いレベルの英語力が必要であることはもちろんであるが、なにしろ学生のほうがずっとテーマの中身に詳しいのである。よくこんなテーマの授業のTAとして私のような日本人を雇ったなと思った。
私のような留学生がTAになるには、英語の試験を受ける必要があるのだが、私はギリギリ合格という感じであった。そのような私に、なんでまたこんな教科を受け持たせたのだろうか。。
TAになって、初日の補講はうまく乗り切った。30名くらいいる学生を一人ずつ自己紹介させて、この学期全体の流れなどをなんとなく説明して、それっぽく終われた。英語は少したどたどしいが、まあなんとかやれそうなTAが来たな、と学生も思ってくれたことだろう。
次の回からが地獄であった。そもそも補講を切り盛りする以前に、教授がやる授業についていくのもやっとなこともあった。また、せめてどんな補講をすればよいか指示があれば良かったが、それもなく、教授に相談しても好きなようにやってよいとのことだったので、なんとなく二手に分かれてディベートさせたりしたが、いまいち盛り上がらない。また、アメリカの若者が普通のスピードで話すディベートについていけないこともあった。補講の教室から逃げ出してしまいたいと思うこともあった。そんな感じなので、2回目以降の補講は、学生の目から見てもかなり痛々しいTAに映ったと思う。補講に行く日の朝は、鏡に向かって、頬っぺたをパンパンと両手で叩いて気合を入れてなんとか家を出た記憶がある。
いま思えば、先生然とするのではなく、いっそのこと、アメリカの学生にいろいろ質問をして教えてもらうようなスタイルが良かったのかもしれない。先生っぽくないけど、日本人の目からいろいろコメントしたりすれば、アメリカ人の学生にも多少の気づきがあったかもしれない。実際、後で聞いてみると他のTAも、難しく考えず、思い思いに気楽にやっていたようだった。
今となっては良い思い出であるが、私にとっては大変な仕事であった。社会人になってからも、この時のどうしようもなく不条理で酷くみじめな境遇はほとんどなかったと思う。そう思うと大変貴重な経験であった。普通に考えたら絶対ムリと思えることでも、なんとか取り組まなくてはいけない境遇というものを味わっておくのも悪くない。
↑アメリカン川の夕日
(つづく)