エチオピア南部の街ヤベロの宿で出会った日本人は、文化人類学の博士課程に在籍中の学生であった。この「博士の卵」は男性で年齢は30歳近くであったと思う。博士論文のためのフィールドワークで度々エチオピア南部を訪れているということだった。私のようなバックパッカーとは少し違った形ではあるが、さすがにアフリカの滞在にはかなり慣れていた。あまり覚えていないが、おそらく晩飯を一緒に食べたりしながら、研究に関するいろいろな話を聞いたと思う。博士の卵はお喋りな人ではなかったので、私が興味に任せて一方的に質問し続けたような会話だったとなんとなく記憶している。ただ、「アフリカの田舎に住んでいる人は、朝から晩まで羊を駆って暮らしているような人もいて、あまり人生に迷いがないように見えますね」という私のコメントに対して、「そんなことはないです。迷いは大ありですよ」と、やや語気強めに反論したのが印象的であった。そして明後日に部族の村に入るということなので、3日間だけ同行させてもらうことにした。一介のバックパッカーではまず行くことのないであろう「奥地」への訪問はまたとない機会であった。ということで、一刻も早くケニア・ナイロビに辿り着きたいという気持ちがありながらも、思わぬ展開で、博士の卵の厚意により数日道草を食うことにした。

 

部族の集落は、ヤベロから乗り合いの小型トラックで半日くらいのところにあった。この集落の人口は40-50名くらいだろうか。いわゆる石造りやコンクリの建物は皆無で、枝や藁を編んで作ったような家屋が、5-10軒くらいあった。人々は民族服のようなものはなく、腰巻きにTシャツとショールのような格好をしている。それは集落の長と呼ばれる人も同じで、よそ者には誰が長か見分けがつかない。もちろん電気や上下水道のようなインフラは皆無。トイレは家屋から少し離れた茂みあたりで各々随意にという感じである。集落の長の家屋の隣にキャンプ用のテントを張らせてもらい、私もそこに居候させてもらった。

 

↓集落の典型的な家屋と人々

 

到着後、まず集落の長への挨拶である。博士の卵は助手という体の現地人の通訳を雇っており、英語→現地語という感じでコミュニケーションをサポートしてくれた。長は気さくなおじさんであるが、コミュニティのリーダーとしての自然な威厳がなんとなく感じられる人物であった。アフリカではよくある一夫多妻制で、この長も奥様が2~3名、子供が合計10名近くいたと思う。2日目くらいになり少し打ち解けてくると、子供を一人日本に持って帰って日本の生活をさせてみないかと言われた。半分冗談であったが、こちらがOKといいえば本当に応じそうな感じでもあった。「子供が遠い国に行ってしまうのは心配ではないのか」と問うと、「元気で暮らしてくれるのであれば、ここに居なくても構わない」とのことだった。長の表情は屈託なかったが、今思えば、やはりここでの暮らしが最上だとは考えていないようにも思える。やはりいろいろ迷いがあるのだろうか。

 

インフラが無いといった集落の住環境はだいたい想像の範囲内であったが、一つ印象的だったのは食事である。普段は3食ホットミルクのみとのことだった。私にはトウモロコシ入りのホットミルクを振舞ってくれたが、普段はトウモロコシも入れないことが多いらしい。それでもガリガリに痩せているような人は皆無だった。後年に、人間はその場の環境に合わせて腸内細菌などが不足する栄養を体内で生成することがある、というような話を聞いたが、まさにこの集落でそのようなことを目の当たりにしていたのかもしれない。

 

もう一つ印象的だったのは、博士の卵の行動である。たしか「一度集落に入ると2-3週間は街に戻らない」のようなことを言っていたと記憶しているが、私が集落に滞在していた間、ブラブラしたりテントの中で寝転がっているばかりでほとんど何もしていないように見えた。私は無邪気に「何もしないのですか」と訊いてみたりしたが、「フィールドワークとはそのようなものです」のような曖昧な回答をしていた。数日後に複数の集落の長たちが集まっての会合があるとのことだったが、そのようなイベントがあればしっかり取材したり記録したりするのだろうが、それ以外は、村の人と関係を作ったり、日常を観察していたりと、待ちのような時間も多いのかもしれない。が、現地でフィールドワークをしたという事実が、研究成果と同じくらい博士号の取得にとって大切のようにも見えた。現にそのようなことをほのめかす発言を博士の卵は率直に言っていたような記憶もある。私が集落に滞在させてもらった3日間は、彼にとって比較的暇な時間であったかもしれないが、私のようなバックパッカーの興味本位の同行に快く応じてくれたことに心から感謝するばかりである。

 

(つづく)