ウクライナの歴史

 ウクライナの現状を知るにはまず歴史的沿革を知る必要が在る。ウクライナは歴史上類を見ない程多くの支配者に支配されてきた国である。

 

 特に東隣のロシアは歴史的にウクライナと深い関係のある国である。ウクライナは元々「キエフ・ルーシ大公国」と呼ばれる現在のウクライナ人やロシア人の祖先が建てた国家が存在していた。

 

 その後モンゴル帝国の侵攻(1240 年)によりキエフ・ルーシは完全に消滅し、 長いモンゴル人、遊牧民による支配が続いた。

 

 次にポーランド(東ガリツィア地方占領)、リトアニア(キエフ占領)、オスマン帝国(南部クリミア地方)、モスクワ大公国(後 のロシア帝国)の支配が続き

 

 第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国と革命により新たに樹立されたソビエト連邦との間で結ばれたブレストリトフスク条約によりウクライナ人民共和国が誕生した。(1917 年~1921 年)

 

 しかし、第二次世界大戦後にソ連により併合された。(1954 年)その後、ソ連の崩壊(1991 年)に伴って現在のウクライナ共和国が誕生したのである。

 

現状との因果関係

 

 ここで疑問なのは、何故同じスラブ系国家であり、かつ類似したアイデンティティを共有するロシア・ウクライナ両国が戦争状態にまで発展しているのかについてである。

 

ロシア側の侵攻論理

 

 はじめに、ロシア側はこの侵攻の大義名分を、ウクライナ東部地域(ドネツク・ルガンスク)のロシア人のウクライナ軍による攻撃からの保護とNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大に対する対抗措置としている。

 

 「ウクライナの領土なのに何故ロシア人なのか?」

この辺りは島国で比較的民族構成が単純な日本とは異なる。前述した歴史で、ウクライナは数多くの民族が入り混じってきた地域であることが分かるはずだ。(詳しくは「ウクライナの歴史」項目)

 

 ロシアに併合された南部クリミアとウクライナ東部地域、ドンバス地方(ドネツク・ルガンスク)は主要な構成民族がウクライナ人では無く、ロシア正教を信仰するロシア人が大勢を占める地域である。

 

 これについてロシア側は、当然自分達と同じ民族で、同じ言語を使用し、同じ宗教の同じ宗派を信仰するウクライナ東部の同胞を守ることが、自分達の使命であると考えている。

 

 その証拠にドンバス地方には、既にロシア政府から32万人がロシア国内での自由な移動が出来る「域内パスポート」を受け取っており、これがロシア国民である証明となり得る点を鑑みても、彼らの多くが自分達のアイデンティティを祖国たるウクライナでは無く、ロシアに求めている点も注目すべきである。

 

 ウクライナのロシア系住民の中でも親露派武装勢力と呼ばれる武器を持ってウクライナ政府に対抗する人々は、ウクライナの時の政権によるウクライナ人優位の政策などから強い不満を持っている。

 

 従って、東部地域やクリミア地方のロシア系住民の中でも特に自己のアイデンティティをロシアに強く依存する傾向から武器を持つのである。

 

 プーチン大統領がロシア軍をウクライナに侵攻させた要因には、この分離独立派に対して、ウクライナ政府が正規軍を派遣して鎮圧を図ったことから、民兵と正規軍との戦力差を憂慮し同胞の保護が強く必要とされていた点が重要なのである。

 

ウクライナの民族間問題

 しかし、西部からキエフを中心とした中部は主要な構成民族がウクライナ人であり、ギリシアカトリックを信仰している。この点でウクライナは多民族国家である。今回の侵攻に発展した経緯を遡ると実はウクライナ国内の民族間の隔たりが起因しているのである。

 

 ではこの民族間の隔たりとは何か?使用言語や信仰する宗派が異なることもそうだが、そもそも近代までウクライナという国がウクライナ人を中心とする国民国家としての民族的アイデンティティを確立していなかったことに起因する。

 

 所謂「ウクライナ人の国家」が成立した背景には、第二次世界大戦でロシア革命に伴って、講和条約を必要としたレーニン率いるロシア(ソビエト連邦)とオーストリア=ハンガリー帝国間で結ばれたブレストリトフスク条約締結が挙げられる。

 

 1917年にこの条約が締結された際、現在のウクライナ東部とクリミア地方のロシア人居住地も含めてウクライナ人民共和国として独立する事をソビエト連邦の当時の指導者であるレーニンが認めたのである。

 

 つまり、現在のウクライナの国境はウクライナ人自身が意図して作られたものでは無く、大国間の交渉によって引かれた副次的な産物なのである。

 

 ヨーロッパ列強によって植民地化された後の国境線を引き継いでいる現在のアフリカ大陸諸国家同様。この国境線には民族的な領域の区別などは無く、大国の条約締結に都合の良い形での国境線が引かれたのである。

 

 また、ロシア系住民とウクライナ人との民族的対立が発生した要因は他にも存在する。特に旧ソビエト連邦による支配を受けた時代は、スターリンによるホロドモールや当時の支配者層の多くがロシア系に占められた点。

 

 ソビエト連邦政府がウクライナ東部地域を国営企業の工業地帯として発展させた一方、西部地域は農業地域として区分けしたことにより、東西の経済格差が発生し、国営企業の多くがロシア語を話すロシア系住民に占められたことなど。

 

 ソ連の支配時の政策がマイノリティであったロシア系住民の地位を大多数のウクライナ人よりも高めてしまったことなどが影響し、ソビエト連邦崩壊後ウクライナ歴代政権が支持率を上げるためにウクライナ人を優位にしたナショナリズム的性格の強い政策を打ち出していることが両者の溝を深める強い原因となっているのである。

 

写真1枚目

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写真2枚目

https://flaghistory.jp/wp-content/uploads/2020/02/Flag_of_Ukraine.png

 

 2022年3月5日 執筆者 sshika