「思いやり」という言葉を話題にしようと思っています。既に言い尽くされた言葉で特に話題性がないのは確かだとは思います。「思いやり予算」これ ほど私には縁遠く、また勝手にそう思うのですが、あれほど意味不明なものはないように思われ、「あれは思いやり予算とは言わない」とまで批判されてもいま す。
この言葉をウェブ、ブログ検索すると数多く語られています。その中のいくつかを見ていると、次のように「思いやり」という言葉を4類型に分けて、類語と縁語を例を解説しているサイト「思いやり - 類語辞典(シソーラス)」
がありました。
●これによりますと類語辞典は、
意義素・用例として
1 家族・周囲などへの思いやり
2 弱者・社会へなどへの思いやり
3 罪人・悔悛者などへの思いやり
4 性格などからくる思いやり
●日本語WordNet(類語)では、
意義素として
1 人の苦しみへの深い理解と同情
2 思いやりある、思慮深い行為
3 人の痛みを理解し、何かをしてあげたいという、人道的な性質
4 意見を支持する、意見に忠実である、または意見に同意する傾向
5 他の人に対する優しい思いやりのある配慮
6 親切な気持ち
と区分され類語・縁語(※日本語WordNet(類語)は、類語のみ)が細かく掲載されています。
そもそも「思いやり」という言葉は、国語辞典ではどう説明されているかを知りたくなります。
●講談社の『日本語大辞典』を調べてみますと、
おもい-やり【思い遣り】思いやること。同情。
●広辞苑(第二版)※古いのですが
おもい-やり【思遣】
1 おもいやること。想像。
2 気のつくこと。思慮。
3 自分の身に比べて人の身について思うこと。同情。
となっています。ここまで来ると古語の世界を調べるのが常套ですので、調べますと
●ベネッセ古語辞典は、
おもひ-やり【思い遣り】〔名〕
1 おもい巡らすこと。推察。想像。
2 人の気持になって考える。
3 思慮。分別。
●大修館古語辞典
おもいやり【思い遣り】〔名〕
1 よく考えること。思慮。
2 人の立場を推察すること。同情。
となっています。何か自分の考える「思いやり」とはすっきりしません。
相手の気持ちに立って、または相手の気持ちを考えて同情する。
とでも説明されていればなるほどと思うのですが、淡白な表現(適切な表現ではないかもしれませんが)になっています。
どちらかというと古語の世界の方が、今の私の思いに近いように思います。大修館古語辞典の2の例として、落窪物語・三から
おのが心本性、立ち腹に侍りて思ひ遣りなくもの言ふ事もなむ侍り
現代訳
私の心の本性は、短気で同情心がなくものをいうこともございます。
が、引用されていました。
何と理性的に自分を見つめている人でしょう。
この言葉には現代も、古き時代にも「思慮」「よく考える」という意味があるようです。
古語の1の例として大修館では、例として枕草子から
いと思ひ遣り深くあらがいひたる
現代訳
たいへん思慮深く争ったものだ
という文章が掲載されています。
思慮とは、熟考に近いように思います。「考えぬく」という要素があるように思います。
これは全くの私見です。この考えを上記の「 相手の気持ちに立って、または相手の気持ちを考えて同情する。」に重ねると安直な思い遣りではなく、深い熟考が伴った、相手のためを考えてのもの、そのように思うのです。
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ここまで書き綴ってきて、なぜ今朝この「思いやり」を話題にしたかですが、最近私は「自己と他者」について書いてきています。
「思いやり」という言葉には、自己という主体が他者を考えて行動する、自律的な面もあり、また習慣・慣習からくる常識的な面も持った主体の志向性の発意が見て取れるように思います。
こう考えて「思いやりを持って考えてもらいたい」という説諭的な、また思い遣りを持たれる側である、他者の要求とも取れることばを聞くことがあります。
このことばの発声者は、何と高みに身を置いた人でしょう。
ブログの文頭の類語辞典の3に
罪人や改悛者などへの思いやり
が区分中にあります。改悛(悔悛)という言葉は時間がないので細かな解説はしませんが、「犯した罪を悔い改めること」「過ちを悔い改めること」と、これはどんな辞書を引いても同じような意味の説明になっています。
3 の「罪人や改悛者などへの思いやり」の類語・縁語の例として、
寛大な ・ なさけ深い ・ 温情ある ・ 人間味のある ・ 花も実もある~ ・ 人情 ・ 情味 ・ 人情味(を示す) ・ 慈悲のこころ ・ (~への)理解(を示す) ・ 粋(いき)な(計らい)
という言葉が例示されています。
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罪人といえば法律を犯した人から、宗教的な意味での罪を背負った人などと幅広い人びとが考えられます。
ことばを変えれば、自ら罰を招きよせ、自由を制約された者から、それ以外に人としての道を踏み外した者も含まれてきます。
前者を一般的に犯罪者と呼びます。処罰刑として死刑を宣告された者は、究極的な立場にその身を置かれ、拘束された環境から逃れることができません。そこには絶体絶命の体感、実感があるのではないかと思います。
犯罪を犯し逮捕された者が、明白な事実により疑いの余地さえなく、自らそれを認めている場合には、「反省」の機会を与えられることになります。自 らではどうしようもない、絶体絶命の拘束状態を経験し、己の愚かさを反省させられる。本当の無実の罪で囚われた者は話題にするつもりはありません。
今年に入って年末に飲酒運転で逮捕された者の即決裁判を傍聴しました。1月31日の深夜です。いまだに跡を絶たない飲酒運転。即決裁判ですから30分ほどの一回の審理で判決が下されます。
懲役5か月、執行猶予3年、彼は二度と罪を犯さないこと、家族や会社に迷惑をかけないこと、その反省するところの弁を述べ続けました。「思いやり」のない自分であったことを反省していました。
「思いやり」の心がなかったことが反省されるということは、先ほどの③の「罪人や改悛者などへの思いやり」とはどういうことかと考えたくなります。30分ほどで天と地の環境に置かれた者から発せられる「思いやり」という弁です。
「思いやり」には強弱があるのか難しいことですが、「思いやり」の薄い人には社会は社会はどうあるべきか。一つの疑問が生じました。
自律心のない人間、自律性のない人間に対してはどのような対応が必要なのでしょうか。絶体絶命の経験から、どうしようもない冷酷を味わった者に対する対応です。
人びと全員が犯罪者ではありませんが、社会は冷酷であるということを多くの人は知っているのではないでしょうか。冷たい仕打ちを社会から受けるこ とを、という意味です。人の一生における冷酷は「死」であるように思います。自分の死は知らないのですが、死に行く自分は知ることが出来ます。
絶体絶命を突きつけられた時、その時以外には「思いやり」を感得することができない。思いやりの強弱は相対的に冷酷さの強弱の体験から培われているのでしょうか。
世の中のぬくもりは徹底した冷酷さを体験しないと犯罪をくり返す者には響かないのは事実です。しかし一方では、現代社会は一面、過保護の時代のように思われます。
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結論のない話を続けますが、ここでハーバード白熱教室第二回「命に値段を作られるか」の講義の終わりの方で、「高級な喜び」についてのサンデル教授享受の講義があります。その話をしようと思います。
メ ル・ギブソン主演の『ハムレット』という映画、『フィア・ファイター』という危険に挑戦する娯楽番組そして『ザ・シンプソン』というマンガの三つの短編を学生に見せ、どれが「高級な最高の喜びか」旨の質問をして、意見を述べさせ、次の内容をサンデル教授は語ります。
<引用>
【サンデル教授】
なるほど。高級なものを理解するには教育が必要だというのだね。
ミルも、高級な喜びは、理解と教育を必要とすると言っている。その点は争っていない。そして、一度教育されると、人は高級なものと低級なものの違いが分かるようになり、さらには、実際に低級なものより高級なものを好むようになるというのだ。
ジョン・スチェアート・ミルの有名な一節がある。
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。その愚者がもしこれに異を唱えたとしても、それは愚者が自分たちの例のことしか知らないからにすぎない」
ここからも、低級な喜びと高級な喜びを区別しようとする姿勢が見て取れる。
美術館に行くか、家のソファーでビールを飲みながらテレビを見るか。ときには、私たちも後者の誘惑に負けることはある。それはミルも承知している。
しかし、私たちは、ものぐさにそうやってだらだらと過ごしている間も、美術館でレンブラントの絵をじつと見れば、もっと高級な喜びを得られるということを知っている。どちらも経験しているからだ。
そしてレンブラントを見るのが高級なのは、それが人類の高度な能力に関わっているからだ。・・・・・・以下略
という内容です。ここで示されている「経験」という言葉に一つの啓示(神からという意味ではありません)を受けました。
違いが分かるということは経験です。何を高級な最高の喜びとするか、それは経験から学習するということです。教育とはそういうことなのです。
絶体絶命、なすすべもない状況、脱することもできない状態は、本人にとっては冷酷な経験です。「喜び」と「冷酷な経験」は全く正反対のものですが、ある面重なりあっていることのように感じられます。
冷酷なる体験、経験などしたくはないんですが普通に生きていてもあり得ることで、ましてや自ら招き入れた者は然りです。そろそろ時間なのでこのくらいにしますが、「思いやり」という言葉、古語の思慮には、現代語よりも熟考の度合いが高いように思われます。
簡単に「思いやり」という言葉を発しますが、冷酷さを体験したとて、冷酷は去りゆくものではありませんが、心して発したい言葉です。
冷酷さもときには必要だ。世の中はそうなっている。そうあるべきだとも言っているように聞こえます。
※今朝は時間なき故、いつものように推敲していません。
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