友岡教授は有名な先生で週末平日問わず講演会に引っ張りだこであった。当さらに東京では定期的にコースを開催していたので拠点は東京である。蔵王大学は地方大学なので基本的に東京から通っていた。私の日課は朝教授を駅に車で迎えにいき大学まで送る。そして教授室へ同行。教授室には教授の取り計らいで私専用の机も入れてもらった。そこで雑用をこなし教授の帰宅時間になったら駅へ車で送っていく。というものであった。

 教授から言われたのは、ともかく大学に残っている人間はまず論文が読めなければだめ。しかも英文が読める必要がある。そのために簡単な英語の教科書を渡されそれを使って文章や単語を覚えていく、ということを延々と繰り返し行っていた。臨床の場にはでれずなんとも退屈な日々であった。まあ、この状況が何年も続くわけではないだろうし、こんなに時間があることもこの先ないだろう。教授に言われたとおり、とりあえず英文を読めるようコツコツと英語の勉強を続けていた。

 卒業旅行を終えた私は臨床研修医として大学に通うこととなった。その初日、研修医のミーティングがあった。全部で5、6人いたが他大学から来た人間は自分だけで全く知人もいなかった。

 ミーティングを終えて他の研修医は自分たちが所属する各医局に向かったが、自分の場合は極めて特殊な状況。友岡教授に師事したくてこの大学に来たのだが、例の裁判のため医局には前任教授が居座っていた。どうすればよいか病院長に相談したらやや戸惑いながら「友岡教授の指示を仰ぐように」との答え。

というわけで友岡教授の教授質に戻り、その件を伝えたところ、「それならば落ち着くまで教授室にいなさい」との返事。こうして研修医一年目の居場所が「教授室」という、きわめて珍しい環境で波乱の歯科医師生活が始まった。

蔵王大学歯学部の臨床研修医になる決意をした私は、指導教授となる友岡教授と面会した。しかし教授から発せられた言葉に少々驚いた。

「実は前任の教授だった志賀教授、とってもいい人なんだけど、彼が他科に移動すると聞いて自分はここにきた。ところが事実は違って、志賀教授と大学の理事長とあることでもめて、それが原因で志賀教授が主任教授を下されてそこに僕がよばれたんだ。志賀教授はそれを大学側に「地位保全」ということで訴えをおこした。彼の言い分はそれが解決するまでは自分が主任教授。医局員も彼についているので僕はまだ医局員と会ってもいない。君の立場もどうなるかわからない。しばらくは指導できないかもしれない」

 正直「とんでもないところに来てしまった」と思った。

とりあえず正式には6月始まりなので、それまでの間は大学時代の友人たちと卒業旅行に出かけることになっていたので、昼食を友岡教授とともにとった後、大学をあとにした。