ローリングサミングをマシンに放つ -2ページ目

ローリングサミングをマシンに放つ

プロレスを考える時は無になれる、無で記す独り言

長州は猪木のことを会長、馬場のことを代表と呼ぶ。

代表の事を長州はこのように語っている。


あの人は違うね。たぶん全体トータルで見てたんじゃないかなぁ、と思うよね。それであの人はとにかく俺にとっては短い期間だけど教えられることと、まぁ身にはなってないけどね、驚かされる事あったね。

素晴らしい人だよ。あの人は。まぁ、猪木さんがどうのこうのじゃないですよ笑、やっぱり本当、正反対だからね。


チョウシュウ.jpg参照 アカツキさん 味のプロレス


確かにトータルで見渡していてくれたのだろうな馬場さんは。。


1990年春の嵐! 馬場の智謀と2つの東京ドーム■小佐野景浩のプロレス歴史発見①によると

小佐野 “プロレス冬の時代”の話をすると、プロレス・マスコミが”冬の時代”という言葉を使うのは新日本が低迷している時期なんですよ。だから83年夏にクーデター騒動が起こり、84年春にまず旧UWFが誕生して、秋に長州力たちがジャパンプロレスとして新日本から全日本へ集団移籍したあたりからが冬の時代に突入しましたね。ようやく春を迎えるのは87年に長州たちが新日本にUターンしてからですよ。

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     ・(略)
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小佐野 前田日明はその後に新生UWFを立ち上げますから、馬場と猪木の支配体制から抜け出た最初の人になるわけですけどね。

――そういう防止協定を結ぶほど、引き抜き合戦という企業戦争で疲れきっていたんですか?

小佐野 かなり疲れきっていたんですね。84年秋に全日本が長州を引き抜きました、85年になって今度は新日本がブルーザー・ブロディ、越中詩郎を引き抜きました。馬場さんからすると、今度は長州らジャパンプロレスの動きが怖くなってきた。「裏切って新日本に戻るんじゃないか?」と。

――長州を信用できなかったんですね。その馬場さんの読みは大正解なんですけど(笑)。

小佐野 そうなると、どんなに仲が悪くても馬場と猪木は手を組むんですよ。

――猪木さんと馬場さんのあいだにはホットラインはあったんですか?

小佐野 たぶん坂口さんと馬場さんのあいだにあったんでしょうね。どっちが先に連絡を取ったかは知らないけれど、新日本のハワイ遠征があったときに、猪木・坂口のふたりがハワイにあった馬場さんのマンションを訪問してるんですよ。


凄い話ですよね笑
しかし、武藤と馬場さんが会っていなかったとは、もったいない。
長州を信用していなかった馬場さん笑


ムトウ.jpg参照 アカツキさん 味のプロレス


ムタのWWE殿堂入りはいつだろう。。