今回ディスクレビューするのは

King Gnu『CEREMONY』







「白日」の1億ストリーミング再生
デビュー1年で紅白歌合戦出場

Official髭男dismと並んで2019年のバンドブームの火付け役となったKing Gnu

そんなKing Gnuの満を辞した新アルバム『CEREMONY』
ほぼタイアップ曲かつ全曲4番と言っても過言ではない食べ応え(聴き応え)MAXのボスキャラのオンパレードである


のは間違いないのだが…


アルバムを絶賛するレビューをみるとどこかやはり腑に落ちない。

めちゃくちゃいいアルバムである。サブスク時代に突入し、CD時代に比べてアルバム単位で音楽を楽しむことが激減したこの世の中で
「King Gnuのあの曲聴いた?」
ではなく
「King Gnuのアルバム聴いた?」
という会話をする若者が少なからずいるのはアルバム軽視反対運動のデモがあったら参加したい私みたいな変態からしたら100点を付けるしかない。(デモ?)


付けたいのだが…。


「開会式」というインスト楽曲から始まりそのまま「どろん」へ
メインストリームポップとは対極にありそうなおどろおどろしい雰囲気とオルタナティブな要素も含むストロングさだが、Aメロ→Bメロ→サビの構成を教科書のごとく守っていて、ある意味で究極にJ-POPな楽曲。
逆を言えば、究極にJ-POPな楽曲を作った上でただでは聞き終わらせない型破りな闘争心が感じられる。

そこから「Teenager Forever」「ユーモア」「白日」と続けることで、音楽番組などではバラードとして扱われてしまうことが多かった「白日」という最強にアゲアゲでファンキーな曲をみずから再評価させることに成功している素晴らしい曲順。


1度「幕間」というインスト楽曲を挟み、「飛行艇」でもう一度アルバムが始まる。


洋楽的サウンドでありながら邦楽的構成
オルタナティブな楽曲でありながらキャッチー

「これが最強のKing Gnuだ!」と常田が腕をブンブン振り回している



と思ったが、11曲目の「壇上」でその全てを破壊する。

ボーカルは常田ただ1人。しかも「飛行艇」のときのような力強さは微塵もない。メロディーもピアノの弾き語りから渋い転調ののちドラムが入る今までとは全く違った構成をもつ。


"何も知らなかった自分を
羨ましく思うかい?
君を失望させてまで
欲しがったのは何故
何もかもを手に入れた
つもりでいたけど
もう十分でしょう
もう終わりにしよう"


"本当に泣きたい時に限って
誰も気づいちゃくれないよな"


"君はすっかり
変わってしまったけど
俺はまだここにずっといるんだ
汚れた部屋だけを残して"
(#11 壇上)



ヒットチャートの1番テッペンに鎮座したKing Gnuが。常田大希が。一体何を嘆く?


2ndアルバムをレビューしたときに私はKing Gnuを"あきらめのパンク"と総評したことがある。
10曲目までは一切それを感じなくて、「King Gnuってこんな感じになったのか…」と。今までのKing Gnuとは別れ、新たなKing Gnu最強時代へ突入する、そんなCEREMONYかと思ったが「壇上」を聴いてそれが違ったことに気づく。



圧倒的孤独感。焦燥感。


それを受け止めることのできぬまま、「閉会式」のチェロの独奏が耳の奥に、心の奥底に突き刺さる。




登山をして頂上にたどり着き目下に広がる雲海や絶景を見た時、多くの人は達成感と感動を覚える。
しかし、常田大希はどうやら違ったらしい。彼は頂上にたどり着いた時、おそらくこの頂上にい続けられないことを考えた。下山するにしてもいつ落石して、いつ崖から落ちて死ぬか分からない。
もしかしたら、頂上にたどり着かないと見えない新たな山を見つけてしまったかもしれない。



はこのアルバムを作っている最中に、いやKing Gnuとして活動をし始めたその日から終わりを常に考えている。
ここまで売れて、次はどうする?「売れた後」って一体どうなってしまうんだ?





私は日本の音楽界に燦然と輝くロックバンドたちが「売れた後」に何をしたのかを考え直した。


サザンオールスターズは電子楽器をいかに組み込ませるか孤軍奮闘し、1985年に『KAMAKURA』という20曲に及ぶ大作を産みだし、1度活動休止した。

B'zは「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」や「裸足の女神」など自身最大のセールスを叩き出したシングルを未収録にした2枚組アルバム「The 7th Blues」という大作を1994年に発売。アイドル的人気とは裏腹に超ハードロックな曲を制作し、テレビ露出も激減。暗黒時代と呼ばれた。

Mr.Childrenは人気絶頂の中1996年に『深海』をリリース。ファンの間では「シャッフルで聴くな」と言われているほど徹底したアルバム的作り方で、ポップ・ミュージックとはかけ離れた社会批評かつ混沌とした歌詞が異色な作品である。


いずれのアルバムも今や名盤を通り越して大傑作との呼び声の高い作品である。
が、B'zなんかはむしろ売り上げが下がった作品でもある。決して発売当時に名盤と言わていたわけではない。


どのバンドも現時点(当時)の「売れた」という評価に焦り、新たな挑戦をすることで、区切りをつけることで、それ以上の評価を獲得してきた。


多分King Gnuもそうなのではないかと思う。「売れた」ことで感じた焦り、孤独、躁鬱、そして終着。

「売れた」という景色をみたことで、1度海に身を投げてポップシーンを俯瞰したサザン、暗黒の雨に打たれながらロックンロールを突き通したB'z、海の底に沈みかすかに漏れる光に希望を見出したミスチル。
「売れた」という山頂にたどり着いたKing Gnuはスポットライトのあたる壇上に登った。
ここに登らなきゃこの焦り・孤独を背負ったまま音楽をやることになる。



そう思ってこのアルバムを最初から聴きなおすとあるものが見えてくる。
「開会式」「幕間」「閉会式」のインスト楽曲はいずれも常田大希が芸大時代に作曲したもの。
また「Teenager Forever」も2018年にはすでに出来上がっていて寝かせていた楽曲である。


常田大希は葛藤の中で昔の自分を頼ったのだ。あの頃の音楽に対するワクワクをこのアルバムに落とし込めた。
だからこの『CEREMONY』というアルバムは、King Gnuの理想形の第1段階を実現させたことを祝うCEREMONYでありながら、「売れた」ことで感じた孤独感・違和感を昔の常田大希の初期衝動に支えてもらいつつ、次のステップへ行くための、区切りをつけるためのCEREMONYでもある。



そんなCEREMONYにしたからこそ、今のKing Gnuのある意味で"売れるための''商業的なメロディーの楽曲郡の中にインスト楽曲や「Teenager Forever」「壇上」と毛色の違う作品が入り交じっていびつに組み合わさっている。まさに混沌。



冒頭で高評価したくないと言ったが、その気持ちは変わらない。体感20点くらい。
でも、King Gnuという歴史がもっと長く続いてこのアルバムが歴史の一部として見返されたときに、このアルバムなしにはKing Gnuは語れない。そんなアルバムになっていて欲しい。King Gnuならきっと出来る。

 





そのときは謝罪の意味も込めて0を1つ付け足して200点を付けても怒らないで欲しい。