この世にあってはならない言葉がある。

それは
「生まれてこない方が良かった」
「死んだ方がマシだ」
「どうして見殺しにしてくれかなった!」


こうした言葉は 生みの親に向けて言ったり、死にかけて命を助けて貰った人がいうケースがある。
この「生きている」と「死んでいる」を比較して、死んだ方が良いという言葉を言いながら本人がまだ生きているのは実に奇妙だ。死んでいる方が良いなら「この言葉」を言う前より先に死ねば良いからだ。

こうした言葉があるのは「本当は生きていたい」という願望の裏返しである。

「いやそうではない。死にたいのだが、死ぬのが怖いのだ。」
と言うかもしれない。

死ぬこと自体は差ほど困難でもなく痛くもない方法などいくらでもある。
飛び降り、飛び込みは即死だし、首つりも苦しいのは僅かな時間だ。
病気の為の治療や手術の方が痛いことなどたくさんある。

「そうではない。死に方ではなく、死んだらどうなるのかが分からないから怖いのだ。」
というかもしれない。

もし、宗教的な観念がなければ、死ねば「無」になると考えるのが妥当だ。つまり意識もなく何も考えることもない状況なので、そこには怖れはない。地獄があって閻魔大王に裁かれると思っている人は皆無ではないが少ないことだろう。また閻魔大王の罰を信じていれば自殺を選ぶことはない。

「死ぬことが怖い」のは、「生きることを止めるのが怖い」ということになる。
つまり「この世に未練がある。」=「死にたくない。」ということだ。

人間は普通の精神状態では「死ぬのが怖い」と思うだろう。

自殺願望 があり、それでも「死ぬのが怖い」と思う場合には、それは本当は心の中では「生きていたい」と願っている自分がいることを自覚するべきだ。

自殺サイト などで一緒に心中する仲間を募り「集団自殺」をするケースがある。
この場合は「死ぬのが怖い」というより「1人で死ぬのは寂しい」「死ぬ決断に後押しが欲しい」かもしれない。

その場合もやはり心の中では「死にたくない」のだ。

以前、飲み屋の隣の席で中年サラリーマンたちが友達の自殺について話していた。


A「何で奴は自殺なんかしたんだろう。死ぬんだったら死ぬ気になって頑張れば良いのに。」
B「そうそう。死ぬ気なってやれば大概のことは乗り切れるんだよ。」
C「何言っての?生きるのは死ぬのに比べて大変だよ。『死ぬ気』って死んでいる方が楽なんだから、頑張れるわけないじゃない。頑張れないから死ぬんだよ。」


「死ぬ気になって」というのは言葉の例えであるが、おじさんCの言うことに妙に納得してしまった。

生きるための「解決法」が見つからない。または見つけることに疲れているので「現状を放棄」したい。それには死んでしまうのが一番簡単ということだ。

自殺は「人間の残された最後の自由意志の行使をする権利」だと思っている。

しかし、
「死ぬのが怖い」
「死ぬのが寂しい」
と思う場合には、自殺をやめた方が良いだろう。
よく考えてみる必要がある。
解決方法さえ見いだすことが出来れば「生きていたい」ということなのだから。

本当に死にたい人はひとりでも十分に死ねるし、
死ぬことに不安や恐れを感じない。
(つづく)