高校の期末テストの日の朝のことでした。
授業をまともに聞いていなかったことが祟って、前の晩は一睡もせず勉強していた私は、それでもまだ勉強が足りないように思って、電車のホームで必死にノートを眺めていました。私は疲れ切っていたので、そのノートの内容は恐らくたいして頭に入ってはいませんでした。
電車がきました。乗って、あたりを見回しました。珍しく、席がどこも空いていませんでした。──こんな日に限って──完全に自業自得なのですが、とにかく疲れていましたから、車両の端っこに場所をとって、荷物を足元に起き、壁に思いっきりよりかかりました。
それからしばらくしてのことでした。私は頭を少し後ろにやって足を少し投げ出すような態勢、それはそれは不恰好な態勢で立っていて、そしてそのまま眠りかけていました。すると、不意に一人のおじさんが席を立ちました。しかも、私の方に向かってきたのです。
「君、座りなよ。」
私はびっくりして、咄嗟に
「そんな、いや、いいです、ありがとうございます大丈夫です」
と遠慮しました。でもそのおじさんは
「いやいや、座りなさい」と笑顔で何度も言うのです。疲れて疲れて仕方のなかった私は、ついに、
「ありがとうございます、ありがとうございます……ほんとにありがとうございます」
といって、その空いた席に座って、電車の揺れに任せてまた眠りはじめたのでした。
よっぽど疲れてみえていたのか、それともあの立ち方でスカートでもめくれてたのか……だとしたら恥ずかしすぎるな……わかんないけど……私は不思議に思いながらその日は登校しました。自分より明らかに年上の方に席を譲ってもらうのを申し訳なくも思いました。
そうしてテストも終わり、無事に冬休みを終えました。
私が電車に乗るのは通勤時間とかぶっていましたので(私も通学に利用していたわけですし)、席を譲っていただいたあとも、そのおじさんには度々駅でお見かけしました。手がちぎれそうな、線路が泣き声をあげそうな関東の寒く厳しい朝、黒いカバーの本を片手に、恰幅のいい体にコートを着てマフラーを巻いて、心の底から温まっているような表情を浮かべていらっしゃいました。
時折、おじさんは私に話しかけてくれました。しかしきちんと覚えているのは、私がたまたまホームに早く着いた日に
「今日は早いんだねえ」
と笑いながら仰っていただいたことくらいです。当時の私は、突然慣れない人に話しかけられるのが苦手で、愛想笑いを返すのに精一杯でした。それが苦しかった。「今日は寝坊しちゃって、父に車でここまで乗せてもらっちゃったんです」なんてことを、ちょっと照れ臭そうにでもなんでも、言えたら良かった。情けない。
気がつくと3月になり、学年末のテストも終わって、桜の開花が気になり出す頃でした。いつものように、おじさんとホームでお会いしました。
おじさんから話しかけられることは、そう頻繁なことでもなかったのですが、その日、そのおじさんはこう仰いました。
「僕、今日で定年なんだ。この電車に乗るのも、今日が最後だよ。」
びっくりして、「そうなんですか」となんとかお返事しました。それ以外なんてお声をかけていいのかわからなくて、固まってしまいました。それ以上の会話はできませんでした。これもなんとも情けなく思われます。
そうこうしているうちに、電車が来ました。席は1つ空いていましたが、おじさんが座りました、と思ったらそのおじさんは私の方へいらして
「君、座りなさいよ。」
と仰るのです。私も「いやいや大丈夫です、大丈夫ですから」とおじさんが座られるようにとするのですが
「いや、僕今日で定年なんだから、終わりなんだから」
と仰るのです。席を譲る理由には全然なっていませんでした。つい頭の中でツッコミを入れつつお断りして座っていただこうとするのですが、しかしそれでも何度も席をどうぞと仰るので、私もとうとう
「……ありがとうございます」
と言って、座らせていただきました。疲れてはいなかったので、眠りはしませんでしたが、あの日は、運転手さんの機嫌もよかったのでしょうか、電車の揺れの心地よさは格別でした。
私は乗り換えのために、駅につく前に電車の中を少し歩いて階段の前に止まる車両まで行くのが習慣でした。その日、私はおじさんの前を通り、その時に深く頭を下げました。
──長年お疲れ様でした。そして、いままでありがとうございました──
すべて口に出すことはできませんでしたが、「ありがとうございました」くらいは小さい声で言ったと記憶しています。どの程度気持ちがお伝えできたかは、残念ながらわかりません。あの後お会いすることは、当たり前ですがありませんでしたので。
もうすぐ桜が咲くような気がした、そんな3月のある日でした。
(同様の小説を「小説家になろう」にも掲載しました。)