こんにちは
備忘録な内容を置いておきます。
何かを教える立場の人には必ず精通する内容かと思います。
ランシエールの「無知な教師」という本
ある教師が、フランス語が分からないオランダの学生たちに対して、なんの解説もなく、フランス語の書物を暗記させ、ジャコト自身はまた学生たちのオランダ語の回答を理解できないにもかかわらず、質問を投げかけつづけたところ、見事に学生たちがフランス語を取得してしまったというエピソードから始まります。
ここから
説明することを教師の役割の前提と捉えている教師を「愚鈍化した教師」と呼び、教える・説明する・理解させることを前提としない「無知な教師」を理想的な教師としています。
説明は、理解する能力がないことを直すために必要なのではない。反対に、この無能力こそが、説明家の世界観を構造化する虚構なのだ。無能な物を必要とするのは説明家であってその逆ではない。無能な者を無能な者として作り上げるのは説明家である。何かを誰かに説明するとは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。説明は教育者の行為である以前に、教育学の進学、すなわち学識豊かな者と無知な者、成熟した者と、未熟な者、有能な者と無能な者、知的な者とばかな者に分かれた世界という寓話である。
鞭打たれるのを恐れつつたどたどしく読む子供は、鞭に服従し、ただ自分の知性を他のことに使うようになるだけのことだ。しかし説明を受ける子供は、理解するという作業、すなわち人が説明してくれなければ理解できないと理解するという喪の作業に、自らの知性を注ぐことになる。彼が服従するのはもはや無知にではなく、知性の世界の序列にある。
愚鈍化した教師は「聡明な者」に多く陥りやすい。
つまり、たくさん知識量のある人がより相手に教えるということをしてしまうようです。
説明してしまう人は無能な人をさらに無能にしてしまう。ということにもなります。
立場として、教える人と教わる人という図式を作っていしまうとそこに上下関係がうまれてしまいます。これは知識や技能が備わったうえでの信頼は得られますが、それ以上の人としての信頼というのは得られにくいとおもいます。
指導者の立場は導くこと、導くためには相手が受動的に立ち上がらなければなりません。
教える人がいて、教わる人がいる。こんな2元的な考えでなく、
目標があって、一緒に頑張ろう!環境は整えるよ!こんな3元的な考えのほうがいいよね。
って話です。
教えず、一緒に進んでいける。そんな環境を作っていきたいですね。