「ジャージを履け!」
「はい?」
いつもの細長い階段の下で、奴が私を送ってくれた後、二輪車を降りてから言った。
ジャージは今、制服の下に履いている。
だから何を言っているのか意味が解らなかった。
「いや、今履いてるじゃん」
バカ?と付け加えると、奴はいつもより真剣な顔で私を睨んだ。
「違くて、いつもだよ」
「え、いつもこの格好でいろと?」
「そう」
「いやいやいや、この格好でいたら先生に怒られるじゃん」
同じ学校だよね?と続けて言う。
私たちの学校は一様私立で、制服の下にジャージを履くことは校則上許されないことだったのだ。
そして何より少しダサいし、私はギャルでもない普通の人間なので、あまり目立つことは避けたい。
「パンツが見えるから履け」
「一様、黒いやつ上から履いてますけど」
「無理」
「無理って…」
「だから無理」
「横暴だな。誰もあたしのやつなんて見ないよ」
笑ながらそう言っても奴はただ睨んでくる。
何もそこまで睨むことないのに。
いつもおちゃらけているせいか、とてつもなく恐い。
「な、なんでそんなに怒る?」
「お前がバカだから」
「いや、会話の流れからしておかしいでしょ」
「ムカつく」
一言で片付ければ、奴は私からそっぽを向いた。
そこまで言われる筋合いはないので、私もなんだか少し腹を立てたくもなってくる。
「だってみんなも履いてないよ?」
「みんなはみんな。お前はお前」
「…なにそれ。訳がわからない」
「もう帰れば」
「え?ちょっと待ってよ。ちんぷんかんぷんなんですけど」
「俺がそういうこと言っても、ふざけるからもう知らない」
「いやいや、ふざけてないし、むしろそっちが校則無視してるんじゃん」
「校則よりも俺のことを考えろ」
「………いつになく横暴だな。だからそれは出来ないって」
「じゃぁ、帰れ」
カチーン
頭の中で、そんな漫画のような音が聞こえると、今だにそっぽを向く奴に背を向けて、目の前にある階段へと一歩踏みよった。
「帰るのかよ」
「はい?
お前が帰れって、今、数秒前に言ったんじゃん」
全くもって理解不能だと言わんばかりに顔と態度で表して言っても、振り返った奴の瞳は今だに怒っている。
今回ばかりは譲る気はなさそうだ。
「ジャージは?」
「いや…………わかった。なるべく履くよ」
「朝も、下校もな」
「はい?」
「だから朝も帰りも」
「いやいやいや、なるべくって意味分かってる?」
「俺が最初に言った意味分かってる?」
ジャージを履けってことですか。
いや、待てよ。
なんでこんなに熱くなってるんだろ、たかがジャージで。
「ちょっと落ち着こう。ジャージだよ。ねぇ。ジャージ」
「あぁ」
「なんでそんなに怒ってるの?」
「お前やっぱりムカつく」
このやろう。こっちが下から出ればこれか。いや、上から出ようとしてもこれだけど。
「もう。我儘だな」
ついキツイことを言ってしまった自分に気付いたが、言ってしまったものはしょうがないし、何よりこの話題からいち早く逃げたい。
「………前の彼女は言わなくても自分から履いてた」
「…………」
…………
「…………なにそれ」
なんだか途端に頭に血が登ったのがわかった。
何故この会話に元彼女が出てくる。
「前の彼女?」
いつもより断然低い声で言えば、奴は慌てさっきまでの怒った表情から眼の色が一変した。
「じゃぁ、その元カノさんと付き合えば。帰る」
「いや、待て。今のは俺が悪かった」
もうどんなに弁解しようと無駄だ。
さっきまでの立場が一気に逆転して今度は私がやつを睨んでいた。
「何が悪いの」
なんだろう。今日はいつになく怒っている自分がいた。
いつもなら元彼女のことを自分から聞いたりしていたのに、その時の余裕なんて無かった。
そうだ。そもそもジャージ、ジャージと煩いからだ。
「元カノがそうしてたのがいいなら、戻ればって言ってるだけじゃん」
そう冷たく言った自分は、逆に冷静で、女独自の怖さだったと思う
「ヤダ」
「…………」
「…………」
即答した奴の顔は真剣に私を捉えていて、少し逃げ出したくなった。
ヤダって…やっぱり我儘だ。
「…………あたしは元カノじゃない」
目を空して言った自分の声は、先程よりも小さく、冷静さも少し失われていたと思う。
「うん。ごめん」
「…謝られるとムカつく」
ムカつく…というよりはあまり味わったことのない感情で、言葉で表したらこの感情は虚しいと言うのだろうか。
もうあまり喋らないでほしい。
その度に胸の奥がこの感情で支配されて苦しくなる。
「…じゃぁ、俺どうしたらいいわけ?」
「…………自分で考えれば」
そんなこと私に聞かれたってわからない。
この気持ちは自分でもどすることも出来ないのだ。
「……なぁ。お前もしかして嫉妬してる?」
…嫉妬?
その言葉の感情を思えば味わったことがなく、いや、きっと何度もこの感情になった時に気づかなかったのだろう。
この虚しさを嫉妬と呼ぶなら私はなんてみっともない人間なのだろう。
「……してない」
「俺、お前は嫉妬しないもんだと思ってた」
「…だからしてないって」
「お前いつも元カノのこととか聞いてくるからさ。しかも明るく」
確かによく聞いていた。
それはただ単に気になってしまったからで、例えば、どういう子だったのかとか、なんで別れちゃったの?だとか…
自分で聞いたくせにあまりいい気がしてない自分がいたことも確かだった。
すごい嫌な自分が見えた気がして、私はそれを隠したかっただと思う。
つまりは偽善者。
そして…
「…………」
「それってあれか。強がり?」
「………………違うもん」
あれ。もんってなんだ。
自分で言ったのにとてつもなく気持ち悪い。
なんでこんな言葉使いしたんだろう。
「ごめんな。これから元カノのこと一切口にしないから」
「………なにもそこまで言ってるわけじゃない」
「…じゃぁ、言っていいわけ?」
「…………」
…………
そのことを考えると胸の何処かが締め付けられている気がして、痛みと少しの虚しさで瞳をギュッと閉じた。
…………
「………………………ヤダ」
「ほら。だから言わないから」
「……………本当に?」
「あぁ」
「…………わかった。……許す」
「ありがとうございます」
そう言った奴は私の肩に手を置いて、自分の胸に押し付けようとした。
いや、おい。待て。
私はまだ完璧に立ち直ったわけじゃない。
ドンッ!
その鈍い音と共に
「…だからって、触らないで!」
そう言い放つと奴から一歩二歩と遠ざかった。
「なんだよ。さっきまで可愛かったのに」
「…………」
…………
「か、わ、い、く、ねーーよ!!」
そう心中で叫んだはずだが、思わず口から洩れてたらしく、私はそう言いながら、顔が紅い自分が想像出来た。
「そういえばなんでこうなった」
少しだけの沈黙のあと、落ち着いたのか奴が何かを思いだそうとする素振りで言い放った。
そんなの元はと言えば、奴がジャージを履けだの怒ってきたことが問題で……
「お前がジャージがどうだの言うから………………」
…………
あ、ジャージ……
「……そうだお前ジャージ………」
…………
…………
「…………逃げやがった」
夏の終わり、私はこの長い階段をただ全力疾走する。