カッツ領空内……そう、いままで『領空』と言う概念はどこにもなかったが、その空を飛び調査を開始するリティン師団長と部下三人、旅団長ジャキ、副官コーズ、少女秘書官トリビアの竜騎兵だった。梅雨時の曇り空で、霧のような小雨がまとわりついた。
四半刻も掛けず、たちまち公国軍の『犠牲跡』にたどり着く。見事な仕事をトリビアにジャキはしてくれたものだ。まさしく人間の軍隊は、旅団規模で壊滅していた。
生き残りの兵士たちは、補給途絶え体力尽きた上に追いうちの竜騎兵の襲撃に怯えて大混乱に陥っている。人間騎士兵士は壮観にも圧倒的多数の三万名はいるであろうに、たった四騎に打つ手なしとは痛快な眺めだ。そいつらは瓦解して、我先に逃げ出した。敵前逃亡とは死罪だから、この時点で公国三個師団は戦力を消失したこととなる。
いま竜で攻撃をしかければ、人間の軍隊四個師団相手にせよ、蹂躙戦が行えるが。もはや戦闘不能な敵を一方的に殺戮するような残虐性は、リティンは人間が人道と呼ぶそれに計って、ひとかけらも持ち合わせなかった。
例え残虐な作戦を用いているとしても、無抵抗なものを殺すことはできない。自らを人殺しと自覚する自尊心に掛けて。戦うは敵足り得る相手と。
隣を飛ぶコーズは騎竜バカラから高らかに笑った。大声で語りかける。
「素晴らしい戦果ですな、もはや公国側に対抗できる戦力は無いでしょう。一気に公国都市レイクを制圧できます。そこを橋頭保とし補給源を確保すれば、万全な態勢です」
悲痛に思うリティンだった。それでは人間の民間人を犠牲にすることとなる……ジャキは許すまいな。リティンは見回した。騎竜ゴースト上のジャキはなにも言わなかったが、表情は厳しかった。騎竜ストームのトリビアも悲しげだ。無線でチキに、全軍を上げて残された人間の物資を鹵獲するよう命じる。武具や野営装備、それに硬貨。大変な戦利品となるだろう。
リティンは即決して声高に命じる。
「ジャキ、コーズ! 貴官らは上空に留まり人間の竜騎兵を警戒せよ! ただし陸戦兵は相手にするな、余計な殺しは許さん。トリビアは私に続け」
リティンとトリビアは、谷間の崖に隠れている鬼兵士のもとへ着地した。ジャキ連隊配下の第一大隊は敵地に取り残されたとはいえ、ジャキが命じた斥候が行った判断で、機転で水路から離れ迂回し、地下水脈の流れには巻き込まれずに済んでいた。いささか雨に濡れて消耗し、風邪の病に発熱し倒れる兵続出したが。調べるとすぐに判明した。怪我人と病人が多数出ていた。流水の打撃での怪我も続出。
死者も三割を超える見込みだ。リティンは自らの采配について全責任を負う立場だったが、一切の弁解をする指揮官でなかった。親か妻子がいる兵には、銅貨百枚の慰霊金をするだけだ。銅貨二万枚はかさむな。
しかも補給は途絶え、ここ数日第一大隊兵は野獣のような飯、つまり野生のカエルや昆虫を捕まえて生のまま食べるような生活を強いられていた。野ネズミに魚すら満足に捕らえられない。
こんな暮らしは痩せ枯れた山岳に位置するカッツ出の鬼にとっては普通のことなのだが。故に食事どころか酒すら豊かなリティンの部隊は、兵士の士気が高いのだ。
しかし、水に流されて重傷の大隊長は、言ってのけてくれた。
「見事な計略でした、閣下。あの水鉄砲無しには大隊はみんな人間どもに潰されていました……」
ここは、水の引いた地下水脈からまた引き返すしかないが、水路を登るのは難儀な道のりだろう。通信機で砦のチキ連隊長と交信し、担架と衛生兵を一個大隊回すよう手配する。
チキらの連絡によると、他にも何体も飛竜が現れ、竜騎兵となった鬼が続出しているという。これは絶好の機会だ。勝利以外のなにものもない!
気付くと、トリビアは泣き崩れていた。無理もない、この崖崩れの原因の爆弾を作ったのは彼女だからな。もっともあくまでリティンの指揮下でだ。トリビアに責任はない。
と、通信に割り込みが入った。
「その声はリティンか? こんな周波数を変振幅発振するのは貴官くらいしかいない。こちらシント司法監査官サタイアだ!」
軽い嫉妬、それに満足感を同時に覚えるリティンだった。シントに残した親友もまた、短期間でとんだ高官になったものだ。
「久しいな、サタイア。こちらカッツ師団長リティン。伝説の飛竜が味方になったよ」
「ああ、シントでもその話題で持ちきりだ。シント市民にもドラゴンの乗り手として選ばれたものが幾人も出た。かくいう私もその一人だ。きみたちに向かう。手土産は……鬼のカッツでは純金純銀なんかが幅を利かすのか?」
シントからサタイアが親善大使としてやってきたのは、まもなくだった。親善大使とは名目、事実はある意味の武力蜂起、クーデターだ。サタイアは文官として、内政面からシント開城を実現した。罪人の子供には罪はないというのに、追放され虐げられてきた『悪鬼』。その権利を認め保護すると。
つまり、カッツの鬼たちすべてにシントの国籍と市民権が与えられたのだ! これは歴史的に大いなる躍進である。これから鬼たちはシントの一員として、文明水準の違う文化を吸収する必要がある。人間たちの闇歴史に言う、文明開化というものだ。
電力による文化を。自動車、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、空調。電灯、電話、無線に始まる情報端末……徐々に鬼たちに身につけさせるのだ。さらに有能な武官には銃火器の扱いさえ。
その橋渡しのために多大なる功績を収めた武官リティンを、シント将官の地位に招くと。ただし功績とは武勲を無視され、カッツにおける農業に食材醸造の開拓事業などが過半だったが。
リティンはシントの武官、少将待遇として、大将の国防総長、中将の司令長官に次いで第三位に当たる総参謀長の役職を任された。ボタン戦争のシントにあっては、指揮する兵を持たない参謀とはいえど強力な権限だ。ちなみに元帥の席は適任者がいないというより、必要性が無いのでいま不在だ。
もっとも、指揮すべき士官・下士官兵が千名にも満たないシントの軍隊とは。シントのよくあるレストランで、メニューに印刷された食えない血の滴る分厚いビフテキ写真にも似た滑稽にも映る。
ただでさえ、一割以上を士官が占め、兵士より下士官が多い平和ボケした軍隊だ。カッツの鬼を下士官兵として増強すれば、伝説の大戦同様、階級が低いほど有能になる、の典型的な見本となるかもしれない。
なにより、書記の側近にトリビア。他に人選は無い。彼女を下劣にも咎めおとしめようとするものは、同じく下劣に将官たる圧力をもって封じた。
カッツの師団長には、ジャキを任命した。副官はロキ。旅団長にコーズとチキ。副隊長兼連隊長にキョウキとトウキ。ジャキはいずれ総族長に選出される可能性も大きい。鬼族五十万の角の無い王として。
ここにカッツ・シント連合が、滅びゆくフォーシャール公国との対立構図を明らかにした。目下最大戦力のフレイムタン王国は、内乱の炎が燃え上がっていると頻繁に連絡が続いていた。
『雑種の野良鬼士』ことリティンのわずか半年余りの辺境悪鬼国、カッツでの戦いの記録は、ここで幕を閉じた。驚くべきことに、任官以来かれは直接率いた部下の兵士たちに零割三分も戦死者を出していない。
これからはシントの将官として、リティンは支配者への階段を駆け上ることとなる。次に王国の人間とあいまみえた時は……
(犬狼疾駆・悪鬼覇王伝編 終)
後書き あとはシントカッツ総出で公国を包囲せんとの勢いで戦争は進むのですが、単なる血で血を洗う泥沼戦記になるのが明白なので、そのシーンは止めてここで〆ます。
この物語を作った根底に、はるか昔の有名戦記でゴブリン(小鬼)可哀そうという女性読者の感想があったからですね。最後までありがとうございました。