深夜の砦の指揮官用の自室だった。もっとも傍らには『娘』トリビアがいるが。リティンは机に積まれた書類に向かいランプの明かりの下、徹夜で戦況の情報を整理していた。
鬼の連隊の中から一個大隊を厳選して引き連れたジャキ。地底の空にした水路を下り先陣を切った彼から通信が届いた。敵、人間の公国の奥から後詰の部隊が迫っていると。少なく見積もって一個師団。
これに思い悩む旅団長リティンだった。人間を甘く見過ぎたか。ここは補給部隊の鹵獲は難しい。奪取すべき好機を逃した。ならば焼き払うまで……ふと、ガラス張りの窓の外に星が見えないことに気付く。雲行きにはっとする。雨か! 春雨、いや初夏の……梅雨の時期が早くも迫っているか。
水は保存が難しいものだ。浄化した水ならともかくただ井戸や川で汲んだ水は、簡単に腐ってしまう。鬼ならばこんな生水も平気なのが強みだが。人間はいちいち火をつけて水を煮沸して飲むひつようがある。
ゆえに水は現地調達が兵法の原則にあるし、腐りにくい酒を携行したりする。麦酒、ビールに葡萄酒、ワインを。しかし雨水なら清らかであり、清潔な布広げ集めれば、即飲める。これは天の時が人間に味方したか。
いや、まだわからないな。こんな天候での進軍は困難だろう。山を登るに谷を降りるに足元滑り危険だろうし。雨ざらしにされれば兵士は体力を奪われる。人間どもの出方次第だな。
もし人間どもが陣を敷き山岳の斜面を利用した天幕に籠るようであれば……長期戦の構えは功を奏するだろうか。いまは雨降れば冷え、晴れればカアッと暑くなる初夏の陽気だ。この梅雨時を利用した戦術か。晴れた時が補給線を襲撃する狙い目だ! ジャキにその旨、伝令飛ばす。
古来より兵、戦とは拙速、つまり拙くとも速さを尊ぶもの、常識だ。もっと活発に後方陽動策をジャキに勧めるか。敵を混乱させ、落とす!
と、策謀したところでさすがに睡魔に襲われる。ベッドにトリビアと共に入る。交わりはしないでの添い寝……女の子特有の甘い髪の香りが心地よかった。朝まで四刻ほど眠るか……
……起床するや、いつも通り湯浴みをする。戦いの興奮と緊張感から、目覚めはすっきりとし眠気感じない。副官コーズがやってきて、前線について話す。なんと、公国方面では鬼たちが瓦解しかかっている! 人間の大軍が迫る恐怖心に圧倒され、逃げる兵が後を絶たないとか。忌々しい事態だ。
湯を上がり朝食をすませるや、指揮官室に入り、コーズと対談する。今日はトリビアも一緒だ。彼女の薬剤師としての見識は鬼には無い。
ここでまた新たな一報が舞い込んだ。前線のジャキからだ。連絡に驚く。公国軍は、鬼の国カッツ領の山岳になんと進軍を続けている! まさか自ら絶地に兵を晒すとは、愚かな。これではまるで背水の陣ではないか。
背水の陣を軽く見るものは、実戦経験の無いお坊ちゃんだ。たとえひざ下程度でも兵たちが水に浸かれば、一刻も過ぎると消耗して動けなくなる道理を理解しないのだ。それでいて、過去ほんの数例背水の陣で圧勝した故事に、気楽に背水の陣を命じる愚行を犯し、惨敗しても過ちに気付きもしない。
これでは敵味方とも、交戦しない内に総崩れ……と、思いもしないことに、ずっと傍らでリティンを見ていた、トリビアが口をはさんだ。
「リティン様、ここはいっそ炸薬を利用されてはいかがでしょうか? 古典的な黒色火薬の原料なら硝石、硫黄、炭の三つともここカッツで安価に仕入れられます。山岳にしかけ崖崩れを起こすのです。より効果的なのは、硫酸と硝酸化合物でしょうが、それはカッツでは合成できませんし」
「火薬か、それは好いな。ではさっそく手配しよう」
リティンは直ちに部下に命じ、トリビアの指示通りの物資を大至急調達し、調合で混合物の火薬を突貫して作った。調達から製造までなんとほんの一昼夜で完成していた。トリビアとしては、素材に不純物が混ざりすぎているので、効果のほどは期待しないでください、とのことだった。
爆弾による発破は、知力面に勝る鬼たちを厳選して行った。山岳を一部崩すのだ。ロキという鬼が、爆弾を設置し導火線に点火する栄誉を担った。ちなみに導火線も火薬式だから酸化剤を含み、雨でも火はつくのだ。
発破の前には、ジャキたちが引き揚げていてくれたら好いのだが……もはや時は待てない。ジャキの悪運に期待して、洞窟水路が潰れないよう願いつつ爆破するようロキを小隊長に任じ命じる。
リティンは豪雨の中、精鋭護衛ものの十名を連れただけで自ら現場へ近接し、遠眼鏡で偵察する。いささか派手にやりすぎたか。公国兵士、一個旅団は死傷したな。しかし戦争とは本来こうした一方的な虐殺なのだ。白兵戦でしのぎを削るのは、絶対的に勝る決戦時以外は下策。消耗戦は愚かだ。
さらにまずい報も入る。この発破で、塞き止めていた地下水脈があふれ出したと。水路はまさに鉄砲水のような濁流に流され……これは、ジャキを犠牲にしてしまったか。絶好の機会のためとはいえ、稀な指揮官を失ってしまった。しかしその水流は、まさに公国軍の補給線を直撃した。
敵は衰弱し傷付き、食料も途絶えた。つまり、いまが攻勢に出る好機だ! ここは総族長に伝達し、カッツ全軍あげて襲いかかれば……しかし、運命は思いもよらぬ方向へ動いてきた。朝日のぼり昼も近付くころ。
副官コーズが勇んでやってきた。興奮気味に駆け寄るや、直立して最敬礼する。
「閣下! 各地で、『封印』が解かれたとの報が入っております。これは!」
「なんのことか?」
「伝説の眠りしドラゴンです。竜騎兵を背に負い戦う飛竜が覚醒しました。神話に倣うなら、魔剣に真の所有者が現れた証拠です」
この報告の意味を噛みしめるリティンだった。飛竜か……伝承ではたしかに、魔剣の持ち主に忠誠を誓う、とある。しかしリティンは常識外のことを想像し悪戯に悩み葛藤する狂おしさは、火酒一杯分の酔魔も持ち合わせていなかった。これはジャキに御あつらえ向きな領分だろうな、と内心皮肉る。
焦燥感に襲われる。飛竜の鍵と言うべき二振りの魔剣は、人間の王国にあるはずだ。なんといっても王国は魔剣の名『炎舌』、フレイムタンを冠するのだから。飛竜が、決定的な戦力が人間の味方に付く?
片割れの魔剣、それとも聖剣『氷柱』……アイシクルは四人組の戦士の一人が有していたな。彼は真の所有者ではなかった。ならば誰が、四人組は王国へ無事帰れた証拠だろうか。
それとも、炎舌、フレイムタンの方だろうか。あれは余りの巨大な剣で、炎舌王国の騎士兵士誰にも扱えず、宝物庫に保管されたまま放置されていると聞く。密偵の情報には、過去王宮宝物庫に盗賊が侵入した例は多々あるが、誰も重いばかりの巨刀など見向きもしないと。
またもや武勲を立てたリティンのもとへ総族長からの伝書により、師団長に任官させるとの通告が届いたのは、それから間もなかった。ほとんど犠牲を出していないリティンの部隊に、さらに一個旅団六千名鬼兵士が増強される。総計一万三千強。
しかしもはや、陸上での小競り合いなど児戯に過ぎない事態に現実は進んでいた。竜騎兵一騎の戦力は千兵に匹敵するとは、良く知られた史実だ。そのドラゴンが人間の味方とあれば、これは……
(続く)
後書き 拙作共通の魔物、ドラゴン登場。正直いって、物語の武力均衡を損なう形になりましたね。いくら策を弄しても決定的な力の差で押し切られてしまう。今後は……