ふと額に心地よいぬくもりを感じ、陶酔感に誘われリティンは目覚めた。砦の自室のベッドの中、深夜と言っていい早朝だ。額に口付けしたのは……半妖半鬼、『養女』のトリビアだ。こんな子供にまさか感じてしまったとは不覚ではある。

 トリビアは緊張に不安した声で伝える。

「リティンさま、戦端が開かれた模様です」

「そうか、ありがとう」

 始まったな、と内心嗤う。動じず、余裕でいつも通り湯浴みに向かう。ゆったりと熱い湯船につかり、側近の鬼コーズから情報を聞く。

 三つの砦で鬼の兵士八千余を率いる旅団長リティンの元へ、連絡は次々と舞い込む。鬼たちの国カッツ領域内に侵攻する、公国の人間たち。その勢力は少なくとも三個師団四万名兵士に相当するらしい。

 険しい山岳の天然の要害の前に、進軍を難儀しているようすだ。当然だ、重厚な金属鎧などまとって満足に山に谷を進めるはずはない。いくら春の穏やかな陽気が、人間どもに味方しているとしても。

 人間はそう愚かではない。鬼の領土など暮らすに不便なだけでなく、土地は痩せ作物はろくに育たず危険で致命的な害獣害虫多いと知り、戦意を捨てて立ち去ってくれれば越したことはない。

 しかし、先日の指揮官暗殺は逆に人間たちの憎悪と敵意をあおって士気を高めてしまったか。ここは守るに限る。人間たちには勝手にせいぜい消耗自滅してもらわなくては。

 ちなみにリティンは、一下士官として小隊長となったときから、部下と共に自前で畑を開拓していた。この夏には収穫できるはずだ、モロコシにイモに麦。もう育ち、驚くほど育っている。

 後方司令部は首を揃え、なぜ山岳の岩に砂利ばかりのこんなに痩せた荒野に育つのかと、不思議がっている。魔法の肥料、と称してリティンは総族長に高く売り込んでいた。これならば後方補給は万全だ。

 肥料に空気中の大半を占める元素、電子凝着の化学人工窒素肥料を使っているのは極秘である。そんなものなんに使うのか理解不能な鬼ばかりだろうが。ほんとうは化学合成された、無機物肥料とは使用するたびに畑を痩せさせてしまうのだが、それについては言及しない。

 もとから枯れた土地、いまさら気にするか。平地に出れば肥沃な平地が広がっているのに。言いなおせば人間は豊かな土地に暮らしているのに、なお版図を拡大しようと策謀している。尊大で傲慢にして不遜なことだ。

 人口からして、概算王国五百万、公国三百万。対するカッツは表向き百万兵を有すると号しているが、実際は全人口おそらく五十万ばかり、亜人の城塞都市シントは二十万もいるだろうか?

 もっとも、鬼の男は全員兵士となるが、人間は兵士になるのは臨戦態勢の戦時下でない限り、二十分の一もいない。つまり目下相手にする公国軍は十五万名程度だ。シントの兵力などほんの数百名だろうが、その気なら一人で戦局を一転しかねない電磁力砲に光線銃などがある。

 繰り返し思い返すが、いまのシントには戦車や戦闘機、軍事艦船はない。あくまで娯楽遊戯染みた模擬訓練、電算シミュレーターにそのソフトが有り試せるだけのはずだ。作ろうと思えば建造は可能だが、平和と戦争の追放を標榜するシントならば……しかし、トリビアに聞くに、堕落腐敗甚だしい。それが故国、魔法都市……

 その科学兵器を人間との戦いに利用するのは、シントの平和条約条例に禁止とすると決まっていた。シントの文官、妖精にしてリティンの親友、サタイアが押し通したのだ。公平な戦いを望むというより、人間たちに逆用される恐れがあるから自然な採決だ。平和の国の平和とはその程度のものだ。

 長い湯に満足し、出て着替える。残り湯はトリビアに使わせる。女鬼の召使いが指揮官の娘として、丁重に世話してくれる。

 指揮官室に入るや、ジャキが待っていた。変わらず朝から火酒呑みながら。

 ジャキはとんでもない情報を話した。

「カッツから公国へは具合のよい抜け道がある。地下水脈にできた洞窟が。ここの上流を塞き止め、地上に泉を作る。この空になった洞窟をたどり下山すれば公国軍の背後に回れ、その補給線に行き当たるはず。補給部隊を襲撃し物資を奪い、敵本隊が襲ってこない内にまた洞窟へ戻ってカッツへ帰る。夜の闇の暗さに期待しよう。おれは闇眼が利かないが、部下の鬼なら一個大隊もいれば余裕の任務だろう。無論、物資は確保出来る限り奪うが、運び出せ切れないなら燃やしてしまう」

「最悪はその秘密の抜け穴を見つけられたらどうするかだ。人間に追ってこられたら?」

「塞き止めた水脈を解き、泉の水を流し込む。これで追っ手は一掃できる」

「だが水が引けば攻め込まれるぞ! 前線はおろかカッツ本拠地まで一直線だ」

「地底での限られた範囲での戦いだ、闇眼の利く鬼に決定的に有利だ。敵が松明を持っているなら、自然片手が塞がる理屈だし。まきびしを敷き詰めるところだね、針に毒を塗って。弓矢よりスリングが有効だ」

「最悪、洞窟を崩すことも考えられるな。爆薬を使って」

「最後の手段にしてくれ。天然の要塞なのだからな。銅の鉱脈でもあることだし」

 愕然とするリティンだった。まさかカッツの領土に、そんな資源があったとは。

「銅だと!? では人間はそれを狙って」

「いないな。大丈夫だ、銅鉱脈は掘り返し精製する際毒素を生み垂れ流し、下流の川を汚染し魚を死滅させる。銅なんて、鉄に鋼に比べたらほんとうは利用価値が薄い。シントなら電線に工業利用できるがな。カッツや王国公国は貨幣として必要とするかな。貨幣価値が変動してしまうが」

「よし、地下水脈を塞き止めよう。最悪、銅鉱山を採掘して銅を鋳造する作業は廃棄物で川を汚染し、下流の人間に害を及ぼす作戦も取れる。民間人に犠牲が出るな」

 コーズが進言した。

「公国側に銅鉱脈ですか。王国側の領土に石炭が大量に眠っていることは周知の通り、掘り返す炭鉱労働者もいますが」

 酒杯をあおり、軽く吹くジャキ。

「だいたい、鉱山勤務は肺を病むからさ、労働者の寿命を縮めるのだよ」

 コーズはジャキに恭しくお辞儀していた。丁重に賛辞する

「ジャキ……あなた鬼だ。見上げたものです」

 この言葉をジャキは鼻で笑った。

「は、どうせ人間さ」

「人間なんて言って済まなかった。貴官は鬼の中の鬼だ」

「おれは人間だよ!」

「そう卑屈になりなさるな。まず自分に優しくあられよ」

 話の噛み合わない二人に失笑するリティンだった。まあ、互いに和解はできたようだな、ならば望ましいことだ。

 いまは安全な第一砦の中、ただ時は流れていく。密偵からは、公国軍が難攻しているさまが次々と舞い込む。二週間経過するや、公国軍はカッツ領内の山に進軍し、多大な犠牲を出し、生き残りも疲弊し切っていた。

 まさにこの時、リティンはジャキの発案した洞窟水路内侵攻を吟味した。抜け穴は完璧だった。事前に密偵を放った情報で、公国軍の布陣は筒抜けだった。まだ敵の勢力は強く、補給線はいますぐ崩せないだろうが、たとえ物資奪えずとも執拗に蠢動し、存分に後方撹乱する好機でもある。

 リティンはいつも通りふんだんな食事と酒、それに楽曲と女で兵士たちの士気、戦意を保ち、来るべき『総反撃』の時に臨む態勢を整えていた。

 

(続く)

 

後書き 戦端の火蓋は切られた。あとは地の利を生かしてどこまで戦えるかが焦点になるはずですが、実は。小鬼が強大な人間相手に。