わたしと涼平さんは、やむなく駅の外に出た。いつの間にか、街はすっかり明るくなっている。朝の白い光が、すっかりわたしたちのことを照らし出してしまうのが逆に怖い。

「この場を離れる必要があるな、真理。だが俺のこの格好は目立ちすぎる。一緒にいるのは危険だ」涼平は、消化剤で汚れた服を忌々しげに見ていた。「別行動を取ろう。お別れだ、真理」

「え!? 涼平さん」

「俺がオトリになる。俺は旧都方面へ向かう。真理は逆に、新都心へ入れ。シュリークを渡しておこう、金も使って良い」

 涼平は肩からシュリークを外すと、わたしに差し出した。手に持つ。ずしりとした重さがした。表面がプラスチック製とはいえ、二キロはあるだろう。

「こんな武器があったって! わたし一人でどうすればいいのよ」

「真理は安全だ、いましばらくはね。直人の行動を見ればわかる。あいつのジージャンに入っていた、携帯に気づいたか? さっき俺の携帯に電波反応があったのは、直人の携帯だったんだ。日中バイオのちんぴらどもを呼んだのは、ヤツだったのさ。正体を隠して偽メールを送ったんだろうな。俺たちを始末し、なおかつ日中バイオがやったと証拠を残すためにね。だが直人は俺たちを見逃した。こうなると、ちんぴらを呼んでしまった手前直人自身も危ない。あいつのこと、なにか撹乱作戦で逃げるだろうな。真理になにかあったら、直人が助けてくれるはずだ」

「さっきのあれ?! あんなやつがどうして」

「確証はないが、俺はそう思う。直人は俺たちの動きを知っていた。俺たちの会話も盗み聞きしていたはずだ。あいつには、真理は殺せないんだ。そうでなければ俺たち二人は、さっき殺されていたはずだからな」

「信じられない」

「簡単に言うと、あいつは弱いものいじめが嫌いなんだ。世界でなによりね」

「涼平さん、嘘言っているよ! あいつさっきは怪我してる涼平さんを殺そうとしたし、涼平さんが大勢の木偶と戦っている間だって身を隠してた。それにたしか、『どうせ弱いものにしか勝てない』なんて当たり前に言っているんでしょ」

「嘘じゃない、どちらもね。だからあいつは戦いが嫌いだし、いじめもできない。だから俺なんかにはとうてい勝てないんだ。あいつは俺なんかより、真理の生い立ちに共感するだろうし」

「共感? わたしと、あんなろくでなしとどこがよ!」

 涼平は目をそらし、一瞬沈黙した。言いづらそうに言う。あいつはいじめられていたからな。学生のころ」

「! わたしのこと、そんなふうに思っていたんだ」わたしは衝撃を受けていた。頭に血が昇る。泣きたいけど……いま涙を見せるのはプライドが許さない。これほどの侮辱があるだろうか、ただ昔いじめられていたという点だけで、あんなやつと一緒にされるなんて!

「あいつなんて、まともな人間関係を作れなくて当然じゃない! ひどいよ。わたしは……違うもん」

「違う、それはいじめを機にそうなっただけのことだ。俺は幼なじみだったから知っている。ただそれは、真理に言えるような話じゃないんだ」

「聞かせて! わたしそういう話、無視できないの。なんでもかんでも、『真理には教えられない。信じてくれ』。ほんとうに殺されかけて、それってもう我慢できないよ!」

「じゃあ、話す。直人は怒るだろうけど」涼平は真顔で語り始めた。「俺と直人は同級生でね、同じ中学だった」

「同級生? 涼平さんは何歳なの?」

「俺たちは十九だよ。俺、コンビニでは歳と経歴ごまかしていたんだ。それはおいて。直人は内気でいつも、一人工作やパソコンいじりをしているような生徒だった。友達と呼べる人は、いなかったろうな。信じられないだろうが、くそ真面目なガリ勉根暗少年だった。そんな直人は中1の夏休み前、クラスメートのある悪戯にひっかかったんだ。英語教師に向かって、こんな質問をするよう頼まれた。『ペットの現在進行形はなんですか?』ってね」

「たしかに悪戯ね。ペットなんて名詞が、活用形になるわけないじゃない。名詞によっては動詞の意味のあるものも多いけど、ペットじゃねえ。でも辞書調べようかな。ひょっとしたら、動詞になるのかもしれないし……」

 わたしはここまで話しかけて、辞書機能を使おうと携帯を借りようと思って、涼平さんの顔が妙なのに気づいた。戸惑って困っている、って感じ。「どうしたの?」

「知らないのか? そうだろうな、真理は真面目だから。潔癖で。昔の直人もそういうヤツだったんだ」

 意味が一瞬わからなかったが、『潔癖』という一語がヒントになった。とすると下ネタ? 最初に戻って問題を考え直して、素直にペットを進行形にしてingをつけて、絶句する。顔が熱くなった。わたし、馬鹿だ……。

涼平は説明する。「意外と知られてないけど。ペットは動詞では『かわいがる』って意味だし、それを進行形にするあれも、そういう意味だ。親が幼い我が子を、ひざに乗せて安らげる、そんな感じが本来の意味なんだろうな。ま、実際は異性を愛撫することにしか用いられないけど」

「それで、直人くんは?」

「悪いことに、相手の英語教師というのが典型的なお堅いオールドミスで。若い頃に結婚詐欺に遭ったからだ、なんてうわさされているぐらいのピリピリした偏屈な先生だった。がぜん、直人は目を付けられちゃってね。もう、教師連中から敵扱いされた。教師をバカにするヤツって、レッテル張られてね。友人もいない直人は学校で孤立してね。後は、不登校引きこもりのお定まりのコースをたどった。成績も落ちこぼれて、周りからはバカ扱いさ」

わたしには、掛ける言葉が思いつかなかった。

「わかったな。じゃあ、そろそろ別れよう。時間が無い」涼平は、わたしに背を向けた。低い声で言う。「だが、直人には気をつけてくれ。まえに俺に言ったことがある。『自分ひとりが死ぬのも、核戦争で全人類が滅ぶのも変わらないだろ』ってね」

「なによそれ……」わたしは言葉に詰まった。自分ひとりの命と、全人類の命が同じというの? 『最低』を通り越して評す声も無い。

 涼平は去っていった。わたしは早朝の田舎町に一人取り残された。

 もう何百メートルか離れた地下鉄駅の方に、パトカーのサイレンが近づいて来るのが聞こえた。わたしにできることは、歩くことだけ。取りあえず国道に出るしかなかった。