わたしはあまりの事態に呆然としながら、やりとりを聞くしかなかった。

「マスターは俺だ、シザーズ!」涼平は激怒している。

シザーズはくっくっと笑った。「そうだな、真理はレディと呼ぶべきだ。それともミストレスかな」

「命令を聞け! 気でも狂ったのか?」

「レディ。急いで決断してくれ。きみに、危機が迫っている。涼平とわたし、ドラゴンの存在を知ってしまったからには、きみは日中バイオから命を狙われる。我ら三者は孤立無援なのだ」

「わたしが?」わたしはとまどうように問う。やっぱり殺されるの?! 「わたしなにもしてないのに」

「例えそうでも。口封じだ。いずれ刺客が襲ってくるだろう。その第一波は涼平が倒した。おかげでこの負傷だがね」

「シザーズ!」涼平は恐ろしい剣幕で怒鳴っている。「真理に余計な事を教えるな。彼女には関係ない」

「涼平。おまえこそ冷静になれ」シザーズは事態を楽しんでいるようだ。「おまえは誇り高い男だ。だから一人で戦い、一人で死のうとしている。だが、わたしは無意味に死にたくないぞ。生き残るためには、我ら三者が協力しあうのが一番だ。三様の敵同士が手を結んでな」

涼平はシザーズをにらみ付けていたが、ぷいっと振り返った。

 ずかずかと部屋に戻って、さっきまで寝ていた所に座り込んであぐらをかく。左手を使ってゆかの上の皿から手づかみで、がつがつと缶詰の肉を食べ始めた。

 その姿に、ビクりとする。怖い。涼平さん、けだものみたい。

 涼平はあっという間に食べ終わった。油にまみれた手を毛布でぬぐう。

「行くぞ」涼平はさっと立ち上がると、ぶっきらぼうに言う。「分離行動をとる。シザーズにオトリになってもらう。レーダーにワザと映って敵の注意を引きつける。敵はおれたちまで乗っていると誤解するだろう。後は低空飛行して離脱。いずれ、安全な待ち合わせ地点で合流する。その間に徒歩で俺と真理は脱出し、新都心に入る。人混みの方が安全だ。今は午前三時。駅へ行って電車に乗ろう」

 わたしは何も言えなかった。身体が動かない。涼平は、行くぞと繰り返す。でも動けなかった。

「どうした、真理?」

「怖いの……涼平さんが」

「あ……。すまなかった」とたんに、涼平の口調は穏やかになった。「つい、頭に血が上ったよ。ごめんな」

「ううん。涼平さんが悪いんじゃないよ」自分でも、声が震えてるのわかる。「わたし、男の人に会うといつもこうなの。むかしの嫌な男を思い出してね」

「嫌われて当然だな。いまは、俺を信じてくれとしか言えない」

「中三のときだったな」

 わたしは涼平さんの言葉を無視して語り始めた。「ルックスだけの低能。ちょっと成績が良くて外見がかっこいいだけで、クラスのいちばん人気だった。意味もなく悪ぶったりして、不良になりきる覚悟もないのに馬鹿やってる軽薄なやつ。優しいとか言われてたけど、結局はご機嫌取り。でもね、わたしも好きだった。初めはね」

「真理、俺は聞いちゃいけない話だったら無理には……」涼平は戸惑った顔だ。

「そんな色気のある話じゃないわ」失恋話と誤解されたな。自分で失笑する。「わたし、アトピーなの。全身、ひどい皮膚病。人に見せられないよ」

「あのかゆくなるあれ? そうは見えないけど」

「薬で押さえているから。ステロイド剤」

「治ったなら、良いじゃないか。真理はきれいだよ」

「治ってないわ。一時的に収まっているだけ。それもね、段々ひどくなっているの。ステロイド剤って劇的に効いてかゆみはとまる。肌はうそみたいにきれいさっぱり。でもそれは少しの間だけ。それが終わると、前よりひどくなるのよ。アトピーは簡単に治らないの。全身、顔も身体もぐちゃぐちゃに爛れた犠牲者も、いっぱいいるのよ」

 自分でも、声がうわずるのがわかる。わたしは語り始める。こんな夏の日のくやしい思い出……。「中学の思春期のころはね。肌を他人に見せられなくて。いつも、長袖着ていた。体育はジャージが着れないときは見学していたのだけど。でも。体育教師が理解ないやつでね。単位が足りなくなるからって、わたしを無理やりプールに入れたのよ。塩素って、最悪なの。全身が真っ赤に腫れ上がったわ。それを機に、いじめられるようになった。化け物扱いされた。そんなことを率先してやるようになったのが、そのルックスだけの男よ」

「真理……」涼平は、とまどいがちに声を掛ける。手がわたしの肩の方へ動いたけど、怖がっているかのようにわたしには触れない。

「気にしないで、いつものことなの。これだけなら、トラウマにはならなかったけど。いつもわたしをかばってくれていた親友が、その男と交際していたのよ。でもわたしの親友、ってことで捨てられた。なにをされたのか、聞くこともできなかったわ。その子、自殺未遂してね。転校して行った。おかしくなって精神病院に監禁されてるってうわさ聞いた」

 涼平の返事はない。わたしは、かれの顔を直視できなかった。

「それからわたし。逃げるように遠い高校へ進学して。いまの家に引っ越した」声が裏がえる。「わたし、嫌な女でしょう? 他人には、ルックスだけはダメ、なんてしながら自分では外見を偽っているの。男をいじめるしね」

「真理は、良い子だよ。心を偽らない、それがなにより大事さ」涼平は優しく言った。「薬学部志望だろ。叶えばいいな」

 目頭が熱くなった。涙がほおをつたう。不覚だけどわたし、泣いてた。

 ……

 涼平とシザーズは、真理が落ち着くまで静かに待っていた。

 八月の蒸し暑い夜。深夜三時。林の中の荒れ果てた屋敷は、半月の月明かりにさらされていた。絨毯の上に置かれた、カンテラの揺らぐ炎。真理自身の影が、リビングの壁に大きく踊る。

 シザーズはすっかりくつろいでいる様子だった。何者かに、日本中央バイオニクスとかいう企業に命を狙われているというのに。その堂々とした巨体は、真理になんだか安心感を与えていた。

 シザーズは優しげにつぶやく。「涼平、おまえは。虐げられるもの一人を救うためならば、全世界を敵に回す男なのだな……それがかつての仲間を敵に回すことであれ」

「よしてくれ。それは戦士には褒めことばではない」涼平もまた、穏やかに答えていた。人間の友人に語りかけるように。

シザーズは優雅に首を巡らした。「そうだな。ほんとうの戦士とは、世界を守るためならば自分一人の犠牲は厭わない男のこと。だが、涼平。名高きスカベンジャーよ。おまえはほんとうの男だ。だからわたしを殺さなかった」

 くっくっ。竜は低く、諧謔の笑みをもらした。穏やかに、だが決然と言う。

「そうして、真理を守るのだな。新庄真理。敵の娘を」

「知っていたのか」涼平は、静かに答えた。

 !? ぎくりとした。

 わたしのことがバレた! メイドだって誤解していたわけじゃないんだ。背筋がぞくっとする。いまは涼平は動けないし、こんな魔物に襲われたら、わたしなんてイチコロだよ!

 緊張に満ちた一瞬……はわたしだけだった。涼平とドラゴンは穏やかに見つめあっている。と、気づいた。

 敵の娘? どういうこと。たしかにシザーズにとってはわたしは敵らしいけど……意味が繋がらない。涼平ってわたしの味方よね。

「真理、ごめん」さみしげな声。涼平はぽつりと言った。「何も、教えられない。だが俺の気持ちに偽りは無いんだ」

 涼平は、先ほどの作戦をシザーズに説明した。シザーズは一礼すると単騎、飛び去っていった。吹き下ろされる風。夜の闇に砂塵がひとしきり舞った。

 涼平と真理は廃屋を後にした。なだらかに起伏のある、まばらな林中。灯りなどなにもない。闇の中、ほんの数歩先しかわからない。木々の影が、風を受けて不気味に揺らぐ。細い曲がりくねる山道を、二人は並んで歩いていった。

 目的の駅のある町までは、けっこうかかる。三キロほどあるだろうか。未明である。民家はどこも灯りなどつけてなく、街灯がぽつりぽつり、頼りなげな光を点している。

 涼平はなにも説明してはくれなかった。真理は、わかっているだけの事実を思い返した。

 真理の父、新庄誠治は日本中央バイオニクスの株主だ。その企業は、ドラゴンを生み出した。シザーズはそこから脱走し、企業を潰そうと企んでいる。だから真理の家を襲って誠治を殺そうとした。真理も殺されていたかもしれない。

 このとき剣崎涼平が現れる。涼平はシザーズと戦い、撃ち落とした。いまやシザーズは敗北を認め、涼平を主人と見なしている。

 しかし事態は一件落着とはならなかった。日本中央バイオニクスは依然、シザーズを付けねらっている。涼平もまた。それだけならまだしも、真理までもが。ドラゴンの存在を知ってしまった、というだけで命を狙われている。真理の父は、突然の事件で逮捕されてしまった。

 わかっているのは、真理たちにとって日本中央バイオニクスは敵。そして味方はぜんぜんいないことだ。

 真理の不安を余所に、町まではなにごともなかった。田畑にまぎれて、ところどころ民家が立っている。涼平はこれからが、慎重にならなければという。電信柱の街灯の下で、ちょっと立ち止まる。

 朝の四時過ぎ。東の空は白み掛けている。

 真理は朝からの服装、つまりブラウスにスカートのままなにも荷物は無い。携帯と財布くらい持ってくればよかったと、ちょっと真理は後悔していた。

 涼平は白いシャツの上に革製の黒いチュニックと薄手のスラックス。肩からは、プラスチック製のカバンを下げていた。カバンに擬態した銃。

 涼平はそれの側面のフタを開けて何かを取り出した。

 ピン札の束。百万円くらいあるだろうか。涼平は一枚だけ抜いて、後は銃の中へ返した。わたしは驚いていた。「いつもそんな大金、持ち歩いているの?」

「はした金さ。これで全財産だからな」涼平はやりきれないように嘆息した。「シザーズと戦うことを決めた直前に、念のため下ろしたんだ。だが俺の銀行預金は、もう引き出せない。自宅にも戻れないからな。とりあえず、着替え代と食費。それに宿泊費だな。真理はなにか欲しいものがあるか?」

「え?!」わたしは慌てていた。「ちょっと待ってよ、宿泊って?」

 B級映画や三文小説のヒロインなら、こんなシチュエーションなら当たり前にエッチするだろう。しかし、現実の女の子はそんな腰が軽くないのだ。世に子ギャル(死語だ!)がいようが援助交際が蔓延ろうが、大半はそんなんじゃない。初めてのデートでホテルに入るなんて、よっぽどの低能軽薄馬鹿女だけ!

「あ、ごめん。変な意味じゃないよ」涼平も慌てている。「こんなときに女性に手を出すなんて、卑怯だしね」

 返事ができなかった。目をそらす。

「真理、俺のことが嫌いか?」戸惑った声。

「嫌いじゃないけど……わたし、誰ともそんな関係になりたくないの」

「そうか。無理もないな」

 涼平さんは、それだけしか言わなかった。二人の間に、長い沈黙が訪れる。気まずかったけど、わたしにはどうしようもなかった。