わたし、真理は玄関に立ち尽くしていた。めまいが取れると、そこには化け物の姿なんてどこにもなかった。幻覚でも見たのだろうか。

 ふと、男の声がした。わたしはそれを知っていた。直人、って人だ。小憎ったらしい、イヤなヤツ。「きみは一線を超えてはいないからな。いまなら、引き返せるぞ」

「なんの一線よ」

「現実と夢。常識と狂気。この世とあの世の一線さ」

「なんのこと?」

「おまえが見ているこの世界は、現実か?」

「現実に決まっているじゃない」

「なぜ、そうわかる。夢を見ているとき、それが夢だと気付くか?」

 わたしは押し黙るしかなかった。直人は続ける。「確かに、夢の中でこれは夢だ! とわかることもある。それが出来ると、楽しいぜ。高いビルから飛び降りてもひらりと着地。調子の良いときは空を飛ぶことだってできる。可愛い女が出て来たときなんて、脱がし放題だもんな」

 思わずむかっとした。そんな低俗な話、大嫌いだ。嫌悪の視線を直人に向ける。直人は皮肉げに笑っている。

「おっと、話がそれたな。問題はだ。なぜ見たもの聞いたものを、それが現実と知ることができるか、だ。おまえに聞くが。地球は丸いか?」

「そうよ」

「なぜ、そうわかる。スペースシャトルに乗ったことでもあるのか?」

「常識じゃない! 地球は丸くて、反対側にいる人が落ちないのは重力があるから」

「重力が何故あるかなんて、現在まだどんな物理学者も発見していないんだぜ」

「でも、重力は確かに存在する。わたし、こう見えても物理も得意だったのよ。運動量保存の法則、慣性の法則、作用反作用の法則。重力によって、太陽は地球を引っ張っている。地球が落ちていかないのは、ちょうど落ちていくのと同じ速さで太陽を回っているから。何故重力と、惑星が回る速さが同じで吊り合っているのかは、太陽系が作られた時のガスの回る速さの名残よ。重力に引かれた圧倒的多数のガスは、中心に集まり巨大な太陽となった。そうでないガスは、太陽系を飛び出していった。彗星となったものも多い。ちょうど中心の重力と回る速さが吊り合っていた物質が、惑星となった」

「よく知ってるな。大学院でお勉強したのか?」

「馬鹿にしないで! 小学生でも知っているわよ」

「では、おまえ部活はなんだった。天文学部か? 実際に望遠鏡で星の軌道を観測したのか? ちゃんとケプラーの法則で確認したか? その計算に相対性理論に基づく修正を加えたか?」

「それは……」言葉につまる。同時になぜか、自分自身と会話しているような妙な気分になる。

「やってないだろう? なのになぜ、地球が丸いなんて考えられる?」

「では、ほんとうの地球は丸くないの? この世界はどうなっているの?」

「いや。地球は丸いよ。きみの発言はすべて正しかった。おれ、こう見えても物理部出でね」

「わたしをからかっているの!」

「まさか。おれは大真面目だぜ。では、おまえに聞くが。おまえがそれを理解したのは、何故だ? いや、言い方を変えよう。身体のどこで理解した」

「脳……。いえ、心というところよ」

「では、その心が何故存在するか、知っているのか」

あらためて言われると、わかるはずもない。少し、パラノイアに襲われた。こんな哲学的なこと考えたの、夢見がちだった小学生くらいのとき以来だ。心って、魂って、命って? ちょっと気が狂いそう。

直人は皮肉げにふっと笑った。「ごめん、いまのはきみをからかったんだ」

「あなた!」

「きみは化学部だろう。化学で説明してみな」

 わたしは思い当たった。人間が、自分は自分であると自覚する、心。それは脳内の刺激作用によっておこる。喜怒哀楽。当たり前のことだけど、嬉しいときに喜び、悲しいときに泣き……それは脳が、外界からの刺激によって変化するから。遊んだり、食べたり、喧嘩したり。

悲しいことにその刺激とは、人工的に造ることもできる。麻薬だ。

厳密に言えば、酒も麻薬だ。酒を飲めば、心地よい酩酊作用と楽しい開放感……嬉しい気持ちを、「人為的」に作ることが出来る。タバコもカフェインも同様。こちらは逆に、人の気持ちを一時的に興奮させる。なにもマリファナやヘロインだけが麻薬ではない。

さらにいえば、薬とそうでない食べ物の明確な線引きなんてない。医食同源、辛いものを食べれば身体が温まるし、瓜やナスを食べれば身体が冷える。油は太るかに思えて、下剤にもなる。

混乱していくわたしに、直人はたたみ掛けた。「わかったかな? では、目が見えなければどうなる? 耳が聞こえなければ。味覚が無ければ。触覚、嗅覚さえなかったら? そんな状態の脳に、麻薬が注入されれば。人はどんな感じを受けるかな? それは現実か夢か区別がつくかな」

「わからない」わたしは当惑して、直人に一歩近づいた。「わからない。どうすればいいの?」

「きみ次第さ。現実を受け入れるか、狂気に逃げるか。どちらも選択できる。線を超えるか超えないかは、きみの自由だぜ」

 わたしは……。ここで視野は途切れた。