平成時代の風穴に向かう未加工のパンピー

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我が道を創らんはわれの脚のみ也


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乾燥注意報ってw


ほんま苦しめられてしまいます毎年はい。


薬用のアトリックスを愛用しております。





さて主体性って言うのは本当に難しい言葉です。


何が難しのかというと、


よく使われる言葉の割には、それが意味する範囲が、実際的にはとても狭いところにあります。





「主体性をもって学習する」


という項目が小学校の通知表にあったが、


この項目の存在を知ってしまった時、


通知表のために主体性を見せかけるのであれば、


それは新の主体性が発揮されたわけではないのではないかと考えてみたとしても、


「主体性」の点数稼ぎの行動を主体的に起こしたと言われればその通りでもあるのである。




だから、主体性というのは、「性」という字が付いていて、潜在的な性質の一つのようでもあり、


目的指向性のある学習的な行動でもあるのである。





どちらの意味で使ってもいいとは思うが、


実際には、主体性があるとか、主体性的に取り組むとかいう、


現在系の表現というのは実際にはなかなかその時点で自覚があることはすくjなく、


振り返れば、あのときのあの一連の行動は主体的な取り組みであった、


と、過去形で認知されることの方が多いという意味では、


主体性とは性質というよりは、アウトプットされた行動そのものをさして使った方がよさそうである。







みたいなことを昨日聞かされました。www


面白いけれど、


まぁどっちでもいいしそうでもいいとも思えてしまいました。


主体的に学習させようとしている時点で、その先生のその意図に気付かせづに子供たちを自発的な行動衝動に向かわせるのが、究極の教育であり、その意味では、教育はエンターテイメントのようでもあるのです。





よく聞くセリフだ。


「おれは周りとおなじぢゃいやなんだ!」


って。




いきがってそういうのはきらいじゃないけれど、


こういうときほど、


周りがなんなのがよくわかっていないんじゃないかって思う。


「周りと・・・」っていういい方をして自己を探ろうとしているにもかかわらず、


そもそも周りがみえていない。




別に、自分のことが分かっていた上で、


ただ単に周りとを卑下したいだけのことなら勝手にすればいいんだけれど、


要は、他人からしたら自分もその「周り」の一部だってことを、


そのことをよく理解しなくちゃいけない。




自分は特別だってことをどんなに声高だかに叫んでも、


周りだって各々そう思って生きていて、


自分と同じくらい複雑で重たい、


荒れ狂う自尊心を必死に処理しながら生きているんだ。




「お前が特別だって?」って、


伝わるほどに、とうてい周りから大事になんてしてもらえないものだろう。





まぁ別に、この世の中が他人を理解しない冷たいものだなんて思わないけれど、


自分が特別で誰ともおなじぢじゃないって言う強迫観念から自分を解くためには


周りがどうこうより、


自分が自分を認めなければならないということだと思うし、


ぎりぎりそれを示せるのは、


結局は行動であり、結局は数字であり、


結局は、周りにも、自分にも勝つことなんだと思う。



ぼくはそんなに普段からストイックではないから、


発する言葉にまで神経をいきわたらせていない時間がほとんどだけど、


「言葉を慎む」というのは、とても崇高な行動なんだと思う。


だいたい、行動を律すること自体ぼくにとっては容易じゃないから、


毎日毎日同じことを積み重ねたり、


目標のために色んな我慢をしなくちゃいけないのは、


頭ではわかるし、ほとんどまぁ、結局はやるはやるけれど、


誰かがそうやって律している姿を見ると、


尊さを感じると同時に、


どうしても少しだけ、そんなに頑張らなくてもいいのにって、


そう思ってしまう。





こういうことは、


ぼくとしては、自分の弱さだと思っていて、


個人の選択を全うすることの尊さをサポートする態度を、


もっと勉強しないといけないと思っている。




だってそうだろう、


なにかを成し遂げようとする時、


何度も大きな壁にぶつかるんだ、


そのたびに、それまで背負ってきた無駄な荷物を捨てて、


身軽になって、壁をよじ登ることに必死にならなくちゃいけないんだ。




こういうことを繰り返していると、


自然と無駄なものなんて背負わなくなる、


価値観も、意固地なこだわりも。


でも、どうしても捨てないで背負い続けたものが、


その人自身だし、本当に大切なポリシーみたいなものなんだろう。




尊敬する先輩を、スタイリッシュというふうに表現するとき、


それは単に外見の事ではなく、


生き方からにじみ出る、


無駄のない所作、


シンプルで力強い風格の事を指してそう言わせるのだと思う。

昨日今日、二日間仕事終わりに一本ずつ観ました。DVDでね。


一期生のメンバーは14、15歳のときにオーディションを受けたことになるみたいだ。


中学生の時に決めた事を、5年間も、


毎日毎日劇場に立っていたみたいだ。


DVDの当時からまた何年か経つから、彼女たちは今年、7年目を全うしようとしているってことかな。


見たことない人は見る価値あると思います。


特にぼくのようにAKB48世代じゃなくて、いままであまり知らなかった人。









AKB48、


ふつーに尊敬します。







何かに縛られていると思って、


どれだけ自由になろうとしても、


この時代に生まれたっていう運命からは逃れられない。






だから、今日出会えた幸せに一生懸命向き合って、


やりたいだけやればいい。






来世のために現世では苦しむしかないなんて


無責任なクソ占い師め、そんな保証がどこにある!






この時代に生を受けたことに感謝して、


生きてる心地を、


いま、今すぐ、味わえばいいじゃないか


感じきれないほど雄大でただただすごい、素晴らしいって言うしかないような


そんな世界がきっとある。






今日出会った人、


去年出会った人、


明日出会うかもしれない人、


今ここにいなかったら絶対出会えていないんだ。


だから伝えたいことを伝えることもできるのも今しかないのだ。







時代とかいうと、政治の話とか、貿易がどうとか文化論とか、いろいろあるんだろうけど、


こう考えだすと、当たり前に思っていたことが急に、


すがりついても放したくないくらい


愛おしく感じてくる・・・・







いっそのこと、その大切なもののために縛られていきることが、


自由な中から選択したいものであるような気もする。







そうやって人を縛る事を許されるものというのが、


時代の象徴なのだろう。

秋の晴れた夜空!


住宅街だけど、ネオンの自己主張。




気ぃついたらシャッター切ってました…












とかいって(笑)




奥に光ってるのはランドマークタワーです。

雲もうっすら照らされています。

団子が必要ですー!_| ̄|○(゚Д゚;)







動物生態学の世界では、体の一部の華やかさや大きさが、


異性を惹き付ける役割を果たすと考えられている例がある。


有名なところでは、クジャクの羽根やシカの角などが好例だろうか。


しかし実は同時に、これは維持のためには生態学的コストがかかっており、生存自体には不利になることがあるのも知られている。






このような話と、


人が覚悟を決めた時に放つ匂いというのは、相通じるものがあろうと思う。





だいたい、人が覚悟を決めるというと、


とかくそのサクセスストーリーありきで語られたがる習性があると思う。





だけれども、人が覚悟を決めたと自覚するようなシーンというのは、



親との死別、仕事での深い挫折など、


当たり前だった何かが崩壊したときに、


それでももう一度、自分は生きていくんだと、


その事実を冷静に自覚できた時



そういうシーンなのだと思う。




つまり、覚悟を決める心理というのは


体験しないと分からない類いの、重たいことだということを感じるのだ。






覚悟を決めた人は強い。



勇気があるとも違う、


個性が強いのとも違う、


さらに志が強いというのとも違う。





「覚悟を決めた人は強い」





この言葉でぼくが伝えようとしている強さというのは、



悲しくても悲しままで生きていく、


さびしくてもさびしいままで生きていく、


自分についた傷は消えないけれど、


そこからでも、新しい幸せは創れるんだ、



なんならば、辛かったその記憶は大切なものだから、


変に、忘れてしまいたいとか、


無理に明るくしようとか、


そういうことじゃなく、



このボロボロの状態から、


二度と昔のように世界を映し出してくれない変貌した自分のその目のレンズで、


もう一度、見えているものを描きなおし、


まるで色水をしみこませてしまったかのように、白くはなくなって見える残りのページを、


またもう一度、一生懸命めくり、


またもう一度、新しく、一生懸命また描くのだ。






「覚悟を決めた人は強い」



この言葉でぼくが伝えようとした強さは、つまりこういうことだ。



何か欲しがったり、何かを成し遂げたい衝動に駆られたり、そういう感情は、



渇望の表現形なんだと思う。





がんがん突き進もう!


なんていう類いの言葉をぼくもよく自己暗示みたいに使うけれど、


だいたいそんな言葉使う時なんてのは、何をやってもまぁまぁ月並みなものしかできない。


本当はどうでもいいってことだから、そんな言葉が必要になるってことだ。






自己啓発ブームは、そういう、渇望に漬け込んだビジネスモデルだなって、


ふと感じることがある。


ぶっちゃけ、寝て食べていけたらそれでいいって人も、多いんじゃないかな。。。?


しかも、もしも、大切な人がそばにいて、


自分も誰かから大切にされてるって感じれてら、


もうこれ以上望むことなんて・・・。







それでもなお、一億円当たっても当たらなくても、


何か頑張るって言うのは、何か得るごとに又新しい自分の渇望に気づくからなんだろう。


気付いてしまうから、またどうしても欲しくなる。手にいれたくなる。


だから、どうせなら、ほんとに欲しいものに気付いた方がいいじゃんて、そういう、


誘導尋問みたいなビジネスなんだ。



いや、それが悪いとか言うつもりはなくて、


そういう捉え方もできるなぁってだけの話だ。




だから恋愛ドラマの言葉なんかでよく出てくる、


「知らない方がしあわせ」


って言う言葉・・・


改めて味わってみるとなんかぼくは考え込んでしまう。


「知らない方が幸せだったよ・・・」


「知らない方が幸せってこともあるんだよ・・・」


言い方を変えるとますます味わい深い。笑。





なんにもしないでのんびりしたいときは、


きっと色んな欲を感じずに、無意識に今の現状に感謝できているってことなんだろう。


逆に、がむしゃらに何かに取り組んでいる姿からぼくは、


努力とか達成とかいう言葉で讃えてもなおもてあますほどの、


渇望を取り返そうとする必死さ


不足を補おうとする必死さ、


至らなさを穴埋めしようとする必死さを、


ぼくは感じる。




それを憂いてみたいとか嘆いてみたいとかそういうことじゃなくて、


そういう捉え方もできるって言う、


ただそう思うって言うだけのことだ。







とかいってぼくは、


今日も今日やりたいことを考えながら家を出る。


それを情熱ととらえるか、渇望ととらえるか、ただの日常ととらえるか・・・。





優柔不断という言葉があるけれど、


そうじゃない人にとっても、思わず決断を迷ってしまう事柄って言うのは訪れるもんだ。



重要なことに関しての行動を先送りしがちで、


そういうことに限って、手をつけないといけない焦燥感をあおってくる。






この焦燥に気づけるかって言うのも、一つのセンスな気がする。






イチロー選手はかつて、進路を考えている中高生に向けて、


「自分がやりたいと思うことにできるだけ早く出会えるかどうかは大切なことだ」


といったメッセージを送った。





とかく今は、中高時代の進路選択は大学進学という大義名分によってうやむやにされて、


結果的に、就職率60とかいう目も当てれない状況が生まれるんだとぼくは考えている。


就職難を単に経済的な問題捉えたい気持もあるけれど、


ぼくは、就職難というのは言ってみれば、


ぼくらの世代がオヤジたちよりもその価値を低く見積もられているようなもの。


敗北。


そんなふうに思う。





そりょそうだと思う。


高校を卒業してすることといえば、


髪染めてバイトしてコンパして夜更かしして遅刻する。所詮この程度。


構造的に、中学・高校は進学率を上げるために進路指導などする余裕がなく、


大学は就職率を上げたいから、小手先の面接練習会ばかりをゲリラ開催するもんだから、


本当にやりたいことなんて、


ふつーにしてたら見つけにくいのが現状だと思う。







心理的な問題としてやるべきことを先延ばしにしてしまうばかりではなく、


ふつーに大人しく優等生をやってたんじゃ、


進路選択に直面する時期を4年も、気付かないうちに先送りされる。


18で考えるべきことを22になってせまられたんじゃ、


とんだ誤算だ。


事故じゃないか。






だから考えなくちゃいけない、


自分自身のやりたいことにできるだけはやく出会うために、


何かしなくちゃいけない!


自分自身で!


高橋優のライブ~


ちょっとしたことに悩んだり、ちょっとしたことに喜んだり・・・


っていうちょっとしたMCをふと思い出してるくらい、


ちょっとしたことでない出来事でしたね~。






ストレス社会でいくらペルソナでがちがちになっても、


感情がなくなっているわけではなくて、


ようは変にポジティブになっている気がする。





今はだめでもきっと良くなるっていう、


前向きな考えで、少しくらい我慢してるんだと思う。





そのわりに社会にストレスのレッテルを張るということは、


やっぱり今はやっているポジティブ思考って言うのは、


どこかずれているんだろうと常々思う。





実際、ブログでこんなくら~~い感じの記事を書くくらいのぼくが、


会社では結構悠々とのびのびやれてたりする。


表面上はポジティブ思考で、自分で自分をポジティブだと公言しすぎる人に限って、


趣味を聞いても何も無かったり、家で一人でいるのが辛いという。






こんな感じだからとりわけ、ポジティブ思考って言うのは本来、


本屋で平積みになったベストセラーのビジネス書を2、3冊さらっと読んだくらいでものになるもんじゃないんだろう。





しかしながら、そうやって四苦八苦しているいわゆる大人は、子供に前向きに考えることを積極的に教える。


その難しさを伏せて、そのメリットばかり押し付けようとはしていないか?


日本の進路教育、進路指導は、実際結局は親の人間力といか、あるいは親の経済的な階級によってその質が決まるようなのが現状だと思う。


そうした中で、自分の未来さえ明確に描けない大人が、


思春期の不安定でセンシティブな子供の未来を考える資格など、・・・


あまり言いすぎてもよくないか。。。笑





ただ中学生とか高校生とかには、


学校を選ぶとか仕事を選ぶということが、


親の世代よりも今の方がずっと選択肢が増えている分、


難しくなっているし、


どうしても同じ進路を選ぶ人がクラスにいる確率も下がっていることになるわけだから、


孤独になりがちってことに、


気付いて欲しいというか、


ようは、難しくって息苦しくって当たり前だよって、


逆説的だけど、安心してほしい。






ぼくは幸いにも20~30年くらい先までの将来図を描けたから、


ライブの余韻とかに一喜一憂しているけれど、


進路を考えているときは、冗談じゃなく、


死にたいほど悩んだ。


誰だってそうなんだと思う、


僕ぐらいの年になっても、


真剣に未来を見つめることさえできないことも、情けないけど結構いるもんだ。






こういう人は、結局自己中なんだと思う。


要は未来の自分なんてのも、結局は他人だから、


そこに対して真剣にかんがえることができないってのは、


子供だ。






子供から大人になるってのは、それくらい、


死ぬほど悩むことがあってこそ、


なんだと思う。





組み合わせとしてどうかともうけれど、たとえば、


ポジティブに進路を考えるって言うのは、


自分のやりたいことを感じることができた瞬間の歓喜を想像しながらも、


そのためには孤独で地味で長い長い戦いをつづけるもんなんだっていう、


その両面を覚悟したうえで、未来の自分という隣人を想いやるということなんだとおもう。