アカデミックなこのブログから。
私も日本の国語教育は、受動的な「読む」に偏重していたと思っていたので、なんか嬉しいです。
このパターンの話は、結構いっぱいあって
私自身でいうと、代表的なのは
・あ♡さんの苦労を知りたくて、自分自身が「脱いでみたり」、その状態で「被写体になる」機会を増やした
とか、古くは
・歌が上手くなりたかったので、作曲(DTM)の勉強をした
とか、それなりにあります。
人は、批評家や評論家になるだけなら容易いですが、その内容を「やったことのある」人の批評と、そうでない人の批評とでは、やはり天と地の差があります。
文章を読み、その内容をより深く理解しようとすれば、こちらも書き手(発信者)の側に立つしかないのは、論を待たない事実といえるでしょう。
にもかかわらず、日本にはまだ文化的偏見として「出る杭は打たれる」という奇妙なところがあって、発信者に対する十分なリスペクトがなされていない嫌いがあります。
私は、教育の現場から「書き」が苦手だったり嫌いだったりする子供をなくすことよりも、SNSに男性や歳がいった女性が水着の写真でも載せようものならたちまち炎上するような、このじめっとした「日本的『文化が育たない』土壌」を破壊していくことのほうが、大事であると考えています。
結果、このブログがこのようになっている訳ですが。笑
それと誤解されているようなので書きますが、
発信上手こそ、真の受信上手(そのジャンルでの)です。
ただし、発信者は人の発信を聞かないことはよくあります。
それは、発信には受信の何倍ものエネルギーを要するからです。
なので、すべて聞いていては発信などできなくなってしまうのです。
また、最近の事例としては「拡散希望」と言われ、何も考えずに(自分の言葉を加えずに)リツイートやリブログをしてしまう人も、同罪と言えます。
「アンプ化」した人間には、人間らしさも魅力もありません。
人間は一人一人違うはずです。
そろそろ「こえのブログ」使って、また歌でも載せますかね♪ギラギラギラギラ☆