私が大好きな「プリラボ!」によれば、日本という国は「6」の国なのだそうだ。
まぁ、あのサイトは半分ネタだし、単純に「JAPAN」をピュタゴリアンシステムで計算しただけなので、「6」説の信憑性については置いておくとして、日本人である我々が、日本の「数秘」を考えるのはごく自然なことだと思う。
私は、いわゆる昔の日本は典型的な「4」社会(ピラミッド型社会)だったと思っている。そして、それは高度経済成長期が終焉するとともに衰退し、バブル期の到来によって崩壊する。
この時期において、歴史上日本人が初めて「まじめに働く=善」以外の価値観を持ったといえるからである。
ちなみに、はづき虹映さんによれば日本は「9」の国なのだそうだが、最近リアル・ネット社会を問わず、実にヒステリックで衝動的な事件や人が多いことを鑑みると、かつて存在した「大和撫子」という人種がよく例に挙げられる「2」(のマイナス面)なのではないか?とすら思えてくる。
いずれにしても、「陰性陣営」(「6」は中庸だが)の国なのは間違いないし、(女性の権利は遅れているのに)日本社会自体は、脳的には女性的であるともいえる。
そして今や世は移り、中国では人が地球から零れんばかりに溢れる一方で、日本は他の先進国同様に人口減少社会になったので、「インバウンド」で国興しを図る時代になっている。こういった際に、日本の誇る製品の質の高さと、サービス業のきめ細かさは大きな武器となるだろう。
なるほど、この点では(特にサービス業のきめ細かさ)では、日本は「6」の国なのかもしれない。
では日本が仮に「6」の国だったとして、気を付けなければならないのはどんなことだろうか。
ご存知の通り、「6」という数字は奉仕的でいながらそれなりに自分の欲求に正直なところがあって、実際のところ色を好み(精神上位ではあるが)、物質的に贅沢なところもある。
そして、「6」は他人に共感する能力と一般受けするゾーンを察知する能力が高いとされている。つまり、「6」とは本質的に「サービス」の数字である。また、同時におせっかい焼きであり、人の目を気にするところもある。かのプリラボにおいて、「7」の説明に「自分がない『6』に疑問を抱いて自己主張をはっきりさせる数字」とあるのも、それを裏付けている。まぁ、実際の「6」は「自分の基準」がはっきりしていて、何事もそれによって決める傾向があるので、「自分がない」といえるのかは、甚だ疑問ではあるが。
それで、結局何が言いたいのか。それは、
日本人に対するマイナスの論評として「人の目を気にし過ぎる」というものがあるが、それは「人に応じて適切なサービスを提供できる」という長所の、同じコインの裏側なのではないか?
ということだ。
「人の目を気にし過ぎる」ことは確かにマイナスの特徴かもしれないが、バランスよく行えば「人に応じて適切なサービスを提供できる」原動力ともなるのだ。
だいたいが、人の目をまったく気にしないで良いサービスやプレゼンテーションが行えるはずもない。
そして、その「6」の要素を強く持った日本人が一番「癒される」相手こそ、「3」(「33」の場合もある)なのだと私は思っている。
現代日本において長く広く受け入れられている人気のゆるキャラや癒しキャラは、実は大人の事情を理解していない「やらかし」である場合が実に多い。「自分はここまではできないけど…」と思いながらも、心の奥底には「3」的な願望があるのは明らかである。まぁ、それは現代日本に限ったことではないだろうが、少なくとも以前ほど「2」的な「従順なキャラ」や「4」や「9」的な「優等生なキャラ」は、受け入れられていないのは確かである。
そして、長嶋茂雄に代表される「5」のような「国民的スター」の時代も、吉田美和・宇多田ヒカルまでで終焉している。
いま日本でいちばんモテるのは、自分の本能と心に素直に従って生きている「3」的キャラである。それは間違いないだろう。
なるほど、そう考えると今の日本人ってどんどん「6」に寄ってきているのかもしれない。「3」を本当に一番愛せるのは、間違いなく「6」だからだ。ただし、いまだに愛情表現がビビッドな人は少ないので、その面では「4」か「9」止まりなんだけどな…。
P.S.:実は「6」の性質自体が、「4」と「9」の中間に位置すると考えられる。それは、6×6=4×9という等式が何より物語っている。
数秘術では「掛け算」という演算は表向き登場しないだけで、数字の性質を裏で支配しているのは、多くの場合「掛け算」(もっと数学的に言えば素因数)なのだ!