異性同性問わず、「生の肉体」を見たいという欲求がある人がいる。この欲求は本来、人間であれば誰しもが自然に生まれつき持っている。

ただ、肝心なのは「異性同性問わず」というところである。この時点で肉体、あるいは裸と性は完全ではないにせよ「切り離されている」。


また、こういう見方ができる人は自分自身も常に「見せる側(見られる側)」に回る準備ができている。正確にいうと「心の準備」なのだが、これはとても大事な要素である。すべての美容的な話はここに源を発すると思っていてよい。どんなに良い衣服を用意されても肝心の「中身(肉体)」がだめなら宝の持ち腐れだし、逆に本当に美しい人はどんな服だろうがそれなりに着こなせてしまう。

さらに、精神的な意味でも裸は解放感につながるので、とても健康に良い。とはいえ、人によっては逆効果になってしまうのは当たり前な話で、早い話が「裸の精神的負担が大きい人」にいきなり裸になことを勧めるのは間違いだろう。だがそういう場合でも、たとえば人前で歌を歌う、スピーチをするといったことが、実は「裸へのイニシエーション」になっている場合がある。こういってももはや誰も信じてくれないかもしれないが、今から25年ぐらい前は、私自身が異常なまでのシャイボーイだったのだ。だけど人前で歌うことと水遊びをすることだけは別で、比較的容易くやれていたのが、今ある私につながっている。

 

あるいは、普通の状態(着衣)で屋外で太陽光を浴びるだけでも良い。確かにこの時期の日光は美容の大敵である部分もあるが、防護服のごとき服装をして完全に遮断すると、それ以上に不健康になってしまう(だいたい、傍目に見て気持ち悪い)。それは私たちの祖先は、農作業などで否応なく多量の日光を浴び続けてきたからである。私たちもまたそのDNAを引き継いでいる存在である以上、適度の日光浴は必要であるし、それ+αの日光浴(屋外の水場や日焼けサロンなど赴いて積極的に日焼けすること)は人に活力とセクシーさをもたらす。
 

正常な人であれば、裸と性は「リンクはしていても別なモノ」と考えられるはずである。私たちは「美しい肉体が見たい」し「できれば自分もそれの持ち主になりたい」のであって、「異性」ましてや「幼児」に限定された「裸」を見たいわけじゃない。ところで、現在の日本は2次元文化が発達しすぎているせいもあって、「ロリコン大国」なのだそうである。別にそういう趣味はそういう趣味として反社会的でない範囲内にとどめておけるのならば問題はないように思えるが、一つだけ問題がある。そういう人間は自分は「脱げない」ことが多い。だから自分より「か弱き対象」にのみ、性的関心が向く。つまり、本質的な意味で自分に自信がないし、それにふさわしい努力も行っていないということだ。それが「ロリコン」の病理である。彼らは結局のところ、存在に主体的な部分がない、あるいは少ない。彼らは個人として生きているにもかかわらず、結局は「傍観者」にすぎない。

 

古来の日本人は混浴温泉に代表されるように「裸リテラシー」の高い民族だった。それがいつからこのような状況になってしまったのか、残念でならないが、こうなった以上は「水着混浴」が基本になっても仕方ないだろう。それでも「混浴」できないよりはマシなのは言うまでもない。何故かって?本来人間とは、「性別」によって完全に切り離されるべき存在ではないからだ。女性以上に女性的な男性もいるし、その逆もいる。そういう人々が、無邪気に交流できる場を破壊してはならない。その意味ではまさに水着部員&トリートメントスパ好きは「最強」の存在だし、時代にもあっていると私は思う。息苦しい性別別社会より、開放的な性ボーダーレス社会へ。いま問われているのは、一人一人の「モラルとマナー」(もっとレベル高い人々にとっては「覚悟」)である。私自身だって、もちろんここに至るまで多くの失敗をしてきた。だからこそ、今の私がいる。

 

なお、「『見せたい』欲求」も一つ間違えればマイナスの要素になってしまうが、多くの(良い)ナルシストたちは「見せたい」し実際に「見せる」ことでその美を保っている。こればかりは脳の働きによるものであり、美容において他者の承認が必要な部分である。そして基本的に美しい人が多いことは社会的なプラスでもあるのだから、認めるべきだと私は思う。

 

SNSには嫉妬が渦巻いている。水着姿などの自撮りを強く批判するほとんどの人が、実際にはその衝動を強く持っている。ならば、楽しくやればいいじゃないか。別に、最初から「質」が追いついている必要はない。それは前述した通り、脳の働きによって人は美しくも醜くもなるからである。