私は最近眠りが浅いうえに心にキズを抱えているので、かなり難しいけど具体的なテーマ持った夢を見ながら起きてくるということがよくある。

今朝もまさにそうで、基本的には東大入試の数学の最終問題がかなり難しくて(東大としては普通の出題のレベルなのだろうが)、それについて受験生がああだこうだ「感想戦」をしている、というものだった。

 

夢だから今一つはっきり内容を覚えていないが、はっきりしているのはある得点を競う競技について3人の順位を求めさせる問題だったことだけは確かである。3人の順位だから最終的な「答え」は6通りしかない。だけど「過程」を示さなければ数学なんだから採点の対象にはならない。結論だけわかっても1点にもならないよ、という話を誰かとしていた時に、非常に今と近い考え方をしている私風の人物(架空の人物)が、

 

「結論だけわかることにも意味があるんじゃないのか?」

 

と噛みついた、という話である。

 

今の私は、夢の中ではなく、起きていてもそう思う。なぜかわからないが答えだけわかる、あるいはとにかくも「1/6の確率」を通常正当とされる思考過程もなしに「当てる」のは、それはそれでサイキックな能力なのだから、ちゃんと評価されるべきなのだ。

同じ意味から、ギャンブルは否定されるべきではない。「博才」は「生来の色気」とか「身体の魅力」などと同じく、その人の能力である。

 

ただ、私が本当に疑問に感じる点はここではない。

私は、もうだいぶ前から日本の教育において「生きる力」が重要だなんだといいながら、実のところは最高学府の入試にしてもこのような「要素還元主義」の極みともいえる悪しき「こまごまとしたテクニックや知の端切れ」だけを競っているかに見える入試システムには、たいへん大きな問題があると思っている。さらに「小論文」などを除くと、分野横断的な問題が実に少ないのには呆れを通り越して感心してしまう。特に東大で出される問題には実は「超難問」や「奇問」が少ないと、私が受験生だったころから言われていた。これは東大の入試作成者が、実は「適性」より「努力」、言い換えれば「天才」より「秀才」を評価しているから、ともいえるだろうと思う。

 

でも…それこそが間違いである。これ以上若人の人生を狂わせるんじゃねぇ!

 

私が経験した数学や情報科学に限らず、どんな学問にしたって、最後は「高度で専門的」(もっといえば電波)な内容が待っている。「専門的な内容」に対しては、「適性」がなければ興味を持続することも難しい。「努力すれば何でもできる」などというのは、一種の信仰でしかない。その証拠に、「努力が続くことが適性」という考え方だってある。

 

この「努力が続くことが適性」という考え方は、「超難問」を出さない、あるいは「超難問」が少ないことが「良問」とされている日本の難関校の入試システムとは、真っ向から対立する。私はそもそも数学においては「オールオアナッシング」だと思っており、記述式の問題における「部分点」というのが大嫌いな学生だった。実際、大学入試より手前のいくつかのテストに関しては、納得いく答えに到達できなければ、それまで書いた大量の「思考過程」をわざわざ消しゴムで消して「0点」にするような学生だった。大学に受かるために親や教師から説得され、私はそれをやめるのだが、あえて言おう。

 

「部分点」が嫌いで、納得いかなければすべて消していた私が正しい、と。

 

大学では、そうでなくても普通に0点を取るようになってしまったのでそれはそれで悲しいが、そもそもそれが「プロの世界」である。高校野球に実力評価ではない「21世紀枠」とかがあっても許されるのは、高校野球は建前上は教育(笑)であり、プロじゃないからである。(それでも一部の「化け物」たちにとってはプロへの登竜門でもあるので、これには正当な批判がなされている。)

 

スポーツ界や芸能界は実力の世界であり、同時に傾奇者の世界であるから「力」のないものは最初の時点で淘汰される。もっとすごいのは将棋界である。将棋界では、ある人が25歳で実は天才的に強かったと気付いても、よほどのことがなければ規約上「プロ」にはなれない。だが、こういった一見「残酷」な「早熟な天才」しか認めない世界は、しかしながら外部の人間たちから見れば実に美しく、風通しもよいことが多い。

 

では、それは何故なのか。答えらしきものを書いてしまうと、

誰かに認められようとして『凡人』どもが必死こいてする「努力」と、真の「美しさ」とは正反対の位置にあるから

 

だ。AKB48のような、本質的に「素人の寄せ集め」でできているメガアイドルグループの卒業者の多くが、結局芸能界にいい形で残れていない理由もここにある。私に言わせれば、かのグループのコンセプト自体がアホかぁ?である。官僚育ててるんじゃねぇんだから、グループ作る際の選抜の時点で100点の「天才」の子だけ取れよ。と、私は言いたいのである。

何が「等身大のアイドル」だよ。「凡人」どもに夢を見させるだけ見させて(その過程で散々こき使って搾取して、対価にわずかなサクセスストーリーを用意して)結局落とすのが日本の支配者層の「趣味」なのか?と勘繰りたくもなる。多くの場合、高橋みなみ的な「努力」は「報われない」。


同じような話が、芸能界のオーディション(このシステム自体が結局私は嫌いなのだが。音楽屋ならデモテープをレコード会社に送る、俳優志望なら舞台のビデオを送る、モデル志望なら自作のポートレート写真を送るなどした方が、「芸能人」という職業柄、よほど理に叶っている。)などよりはもっと参加者の多い難関大学の入試にも言える。彼らの最大の問題点は「入った先」のことまで考えて選抜者を選抜しているかどうか、そこが今一つ、いやまったく見えないことである。「入った先」のことを考えれば、難関大学ほど学科ごとに一芸入試にしてしまった方がよい。あるいは、選抜基準を各科目の細切れで稼いだ合計点ではなく、そのうちの1科目の最高点にするべきなのである。そうでなければ、真に分野横断的な、全ての科目を統括する問題を作るべきである(だから、「小論文」という選抜方法はシンプルながら優れていると私は思う。ただし、そこが文学部でもないのであれば、志望学科の分野に関してある程度専門的な知識を問えるものでなければならないが)。それが、本当に若人の未来を考えた「選抜方法」なのである。

そうでなければ、せめて選抜基準を入試の前に明文化するべきである。選抜基準はその学校の「思想」そのものである。異なる学科の志望者を、同じテストで合計点で選抜しているのだとすると、これ自体が明らかに間違っているではないか!

まぁそれができないのは、要するにコストの問題なのだろうが、「数学バカ」でなければ難関大の数学科にいても、絶対に楽しくなどないし、「プログラミングが三度の飯より好き」でなければ難関大の情報科学科にいるべきではないのは、私が見てきた絶対の真実である。

難関大学における講義のレベル、単位取得のレベルを考えれば、不適性(不真面目ではないにせよ)な学生の学習能力(伸びしろ)のなさ、および大学の「育成能力」の限界を、もっと理解しておいたほうがよい。


なのに、何故このような不当で多科目な選抜試験(センター試験も含め)が行われるのか、私には理解できない。そもそも本来、アカデミズムとは「いろいろなことをバランスよく(「中途半端」ともいう)知っていること」ではないはずだ。それは一見「生きる力を持っている」人に似て、実際には何も生み出せない「道化者(ピエロ)」を生み出すだけなのだ。なのに、そうだと言い続けてきた国公立の名門難関大学のご都合主義が、独立行政法人化でどうなっているかは、みなさんご存じだろう。

確かに、学問は「儲かる」かどうかだけで決めてはいけないとは思うし、生き方としては「専門バカ」は狭い。でも、最終的には人はそうならざるを得ない。そして、悲しいことだが経済の論理もまた、無視はできない。

 

近頃のクイズ番組などに、何度も東大に入り直した(たぶん違う学科で)人がたまに出てくるが、もはやこんなもんは「趣味」でしかなく「バカ」にさえ近い。ただ単にTV的に面白いので彼を使えるうちは使っているだけの話で、まっとうに「専門バカ」になれた人のほうが遥かに人としては優れている。っていうか、こうも悲惨な出来事が多い世界において、本来は大学なんて一生に一度でも行ければ「恵まれている」部類だと、何故気づけないのだろう…。

だから、私はこういう人は「バカ」だと断言する。こういう人は、自分が本当になすべきことをやっていない。
 

同様に、「クイズ番組の王者たち」に、私は知性を感じることはほとんどない。彼らは単に、「情報の細切れ」を脳の中に多く有しているだけのことである。他の要素にも秀でていない限り、クイズ番組を盛り上げその番組の賞金を取れるかもしれないが、彼らなどなんの役にも立たない。彼らの「知識」は、残念ながらご本人の体験に裏打ちされていないものがほとんどだからだ。

 

結局、親が私に費やした学費は無駄以下だった。(普通はこれは謝るべきことなのだろうが、私の場合それに関しては本当に「ボタンの掛け違い」としか言いようがなく、どうにもならなかったと思う。あの大学でコンプレックスを抱かずに無傷で卒業するには、正直言ってまともに部活することも、青春を送ることも、長時間のバイトを経験することも、当時の私のエネルギーではできなかっただろう。)しかしそれは、私がある意味そういう過酷な運命のもとに生まれてきていることを、当時の親も学校の教師も私自身も、誰も理解していなかったからだともいえるだろう。私は普通の人が得られる機会をあらかたすべて失ったが、彼らの厚意(そういう意味では、私の親は普通よりはよくできた人であると思う)により現在も比較的恵まれた暮らしをできている。ただ、それもあと数年である。

それでも彼らが私を支えられるうちに、私自身がその枠の中から出られた(精神的な意味限定とはいえ)のは大きい。それすらもできない人だって、世の中にはいるのだから。その過程におけるあ♡さんとの出逢いは、私に精神的な潤いだけでなく、視野の広がりをももたらしている。

 

昨日CSのフジテレビで「ギルティ」を見てまた泣いてしまったのだが、過酷な運命という点では、私もまた大差ないと思っている。高校までは本当にほぼ間髪なくいじめられ(あるいは「いじられ」)続け、やっと自分の希望が通り、自由を得たと思った大学では(結果的にではあるが)学問の壁に「裏切られた」。

そして実際にこの社会の支配層は、それがあそこまでわかりやすい不正や悪だとは言わないまでも、宇喜田(演:吉田鋼太郎。2010年時点で彼をこの大役に抜擢していたこのドラマの製作者の「眼」はやはり凄い。)的にいえば「取るに足らない」庶民の幸せなど願っていない(それには彼らなりの都合や限界もあるので、別に私はそれを単なる「悪」や「怠慢」とは思わない)。だからこそ、難関大学の選抜基準さえ本来の意味でまっとうにできないまま(おそらく今もそうだろう)、金にならない学部学科は廃止されたり冷遇され続けるなど、「強者」の論理ばかりが優先にされ続けている。

これに関して私にできることは、自分の経験をもとに「大学(権威)なんて信用するな!」と皆さまに伝え続けることだけである。それでも、「ギルティ」が見せてくれたように、「力がない者」(「ギルティ」における北区毒入りチョコレート事件の広義の被害者たちは、条件的には私よりもっと恵まれていない人たちだったかもしれない)たちだって集まれば「何か」はできる。

 

この事態を打開するためのヒントに、私は薄々気が付いている。それは「世間体などを一切無視して、自分のやりたいことをやり続ける(反社会的ではない範囲で)」ということだ。幸運にも、私は無実の罪までは着せられていない。年齢的、健康的にはやばいが、前科はない。だから今のところ、私の「職歴ナシ」は「不戦敗」でしかない。そこは遥かに野上芽衣子さんよりも条件が良いのだ。

だから、諦めるな。前を向け。進め、進め。

それもできなくなりそうなときは、アロマだって水場だって使えるものは何でも使え。そして、また進め。

 

ありがとうございました。