…私が失ったのは

「場」や「形」だけか、

「心」もなのか、

「場」も何らかの形で失わずに済むのか…。

それは分からない。

それについて、今の私にできることは

「審判の日」を待つことのみだ。

 

それにしても

ひどいことをしてしまった。

いくら疲れと続出するトラブルがあろうと、

私が障がい者だろうと、

それ以前の問題。

 

もっとも、それは

私の心のどこかに

こんな「驕り」と「油断」があったからかもしれない。

「この『場』さえあれば

私はこの関係を

いくらでもよいモノにできる!」

 

はぁ?

こんな「パ二男」が?

百年早いわ!

 

それなら聞こうじゃないか。

私にとっては「場」と「形」を失う「だけ」ですむかもしれないそのことが、

あの人にとっては「生活がかかっている」ことだと

何故お前は気づけないのか?

 

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

本来はこの「反省」も、

「後悔」の感情なしに

もっと淡々とすべき内容のことかもしれない。

だが、今の私にそれは無理。

それは、心理学でいう

「自動思考」の壁があるからだ。

つまり、どんなに前向きなことを考えようとしても

心は激しく自分自身に怒り、後悔させてしまう。

今はまだ、そういう状態だ。

そんな今の私にできることは、

とりあえず「眠れるなら眠り」、

「食べられそうな好きなものなら、たとえ食欲があまり湧かなくとも

ちゃんと食べる」ことだ。

 

同時に、この恥ずかしく不名誉極まりないこの記録を「共有」することも、私に関しては必要な作業と感じる。

何故ならば、天が私に与えたお役目の一つとして

「余計な装飾を施さず、自分という人間の

良い所・悪い所を問わず

表現すること」が、確かにあるからだ。

 

また、他方で私は

次のようなことも確信している。

今起きていることは、

今の私、そして離れていてもそばにいるあの人にとっては

確かにとてもつらい状況だろう。

でも、全てのことは時間が解決するはずだ。

それも、どういう形になるかは分からないが

最終的には「良い方向」で。

何故ならば、

私たちは基本的には

「優れて善良な人々」のはずだからだ。

その確信、自負まで失ったら

私は今度こそ本当に「終わり」だろう。

 

次回こそ本件と関係のない記事を書きたいが、

それはまだまだ無理なことかもしれません。

また、こんな私をリアル・ネット関係なく

応援してくださる皆さまには、

心から感謝申し上げます。

 

…まぁ実際、

たまにはこんなブログも、悪くはないと思う。

少なくとも、煽りや悪意からのみ、

あるいは「売らんかな」からのみで書かれたブログに比べれば、

はるかにこんなの「軽犯罪」だろう。

 

--------------------------------------------------

 

ところで、私(あの人も)が大好きなドリカムに

こんな詩がある。

 

「時間はとても不思議ね 正気にかえしてゆく」(MEDICINE)

 

ありがとうございました。