この記事は2017年3月25日に初稿投稿されたものです。

 

-ああ、やっぱりね。-

 

勝者には拍手が贈られず、無謀な出場をした敗者に拍手が送られる。

どんなスポーツも文化も生命線は「ファンの質」なのに、大相撲はまたも「裏切った」。

 

モンゴル出身の大関・照ノ富士が立ち合いの変化で勝ち1敗を守った一方で、久々の「日本人新横綱」稀勢の里は、昨日救急車で運ばれねばならぬほどの大怪我をしたほどの危険な状態で横綱・鶴竜戦に、まるで相撲にならず完敗

 

気持ちはわからなくもないが、ルールで禁止されていない「変化」での照ノ富士の勝利へはブーイングが起こり、非科学的な強行出場をした稀勢の里には相撲になってない完敗をしても拍手を贈られる。今更言うまでもないが、これが大相撲の衰退を招いている元凶である。大相撲はスポーツとしては優秀(※)でも、メインとなるファンにアホしかいないので、こういうことになるのである。

 

私とて相撲はずっと見てきている。「変化」が仮に「卑怯」とかいうモラルの問題以外ではノーリスクで、勝利に対しての期待値ばかりが高いのであれば、大相撲がプロの格闘技で勝負の世界、どうあれ勝ってナンボである以上、むしろもっと「変化」は多用されてもいいはずだ。しかし、そうはなっていない。体を横に形に開く(開くというのは私の言葉なので、間違っていたら正しい相撲用語に脳内で変換していただきたい)という不利をも背負ってのギャンブルである「変化」にケチをつける一方で、前日「救急車を呼ばざるを得なかった」ほどの大怪我という科学的視線を無視しただの観客席の期待だけから強行出場した「日本人」横綱には万雷の拍手って、どう考えても大相撲の標準的観客はキ〇ガイなんだろうね。そうとしか思えない。

 

残念ながら日本の「国技『大相撲』」は、中の人もファンも未だにそのレベルである。ちなみに、いまだに一人の絶対的エースに酷暑の甲子園で連投させる「金足農」に対して喝采が起こるような「高校野球」も、その点では全く同じである。その両者に共通することは、ファンの異常なまでの非科学的な「精神論」と、「判官びいき」である(それに加え両者は、日本の中でもさらに「都道府県」「お国」という出身地に異常にこだわるファンが多い点でも共通している。)。だいたいが大相撲でそんなに「変化」が誰もが気に食わない「卑怯な技」ならば、ルールとして禁止すればいいだけだ。そもそも相撲界の閉塞感に追い打ちをかけているのは、モンゴル勢の台頭であるのは間違いない。だが、彼らは白鵬をはじめ、基本的には日本人の一般的なそれと比べても礼儀正しい若者ばかりである。どうして多くの好角家は、「日本の『国技』」が、今やモンゴル人をはじめとした多くの海外の若き格闘家によい働き場所を与えていることが、そんなに気に食わないのだろうか?「柔道」が国際スポーツ「JUDO」になったがごとく、「相撲」も「SUMO」じゃいけないのだろうか?

なんにしても、「稀勢の里一極集中ファシズム」とでもいうべき現在の状況こそが、相撲界の衰退の本当の理由であることを、もっと大相撲の中の人も熱心な好角家も、自覚すべきでなのである。

 

それがスポーツである限り、その一番根幹を成すものは「ルール」である。そして「ルール」の範囲での勝者には、等しく拍手を贈るべきであるし、本当に心配すべきは稀勢の里の深刻な怪我の状態である。何度も言うが、彼は昨日取組後に「救急車で運ばれた」ほどの怪我人なのである。その怪我人が「大丈夫」といって出場して、やっぱり案の定の完敗。これを冷静で客観的な視点を持つものが、本当に肩を持つと思うのか?

好角家の「『久々の日本人横綱』稀勢の里ファシズム」が真っ先に潰すのは、結局のところ当の稀勢の里の選手生命である。それが分からない「相撲ファン」の標準的なレベルは、悲しいかなAKBや乃木坂狂いの男や、ジャニーズ狂いの女どもよりも低い。自称「好角家」の罪は重い。

 

数字上は自力での連覇が残る稀勢の里関は、「乗り掛かった舟」で明日も強行出場する気なのか?そのことのほうが、本当に分かっている私のようなファンからすれば「裏切り」行為である。少なくとも、今日の取組の内容を見れば愚かな客への「顔見せ」は今日だけで十分であり、もう終わりでもいいはずである。

もちろん、明日までに状態が好転するという「奇跡」が起きる確率はゼロである訳ではないだろう。でも、横綱は愚かな客どものための「客寄せパンダ」ではない。せっかく誕生した「日本人横綱」を、短命に終わらせる気なのだろうか?稀勢の里関よ、あなたはもっと自分を大事にしてほしい。愚かな「ファン」の「期待」に応えることが、あなたの使命なのではない。

また、あなた自身の意地や欲だけで無理に出場してもいけない。それが本当の意味で「横綱」という責任のある地位を任された者が果たすべき、責任なのではないだろうか。

 

いずれにしても、「稀勢の里」その人ただ一人にかかる過大な期待こそが、今の相撲界の最たる「ガン」なのは間違いない。そのことを認めようとしない自称「好角家」こそが、相撲界の健全な発展に水を差しまくっている「戦犯」である。

スポーツは第一義的には「科学的」なものであるはずである。それを無視している連中に、「神風」などは吹かない。

 

[以下、2018年9月23日追記]

 

(※)…「中の人の技量レベルが高い」という意味です。競技の性質上、故障などの危険性が低いとは筆者も思っておりません。力士の(ヒトとしての)平均寿命の短さも気になります。最近の力士は一時に比べると軽量化しています。それは、重量化が内臓や足腰に与える悪影響が重視されてきたからです。

 

結果的に私の予想を覆して稀勢の里はこの場所で千秋楽も強行出場。逆転優勝しましたが、それが彼をさらに苦しめることになったのは間違いないと思います。もっとも、ここで優勝しなければないという危機感はあったのかもしれないですね。稀勢の里の場合は年齢的なこともあり、またその性格からも優勝争いをしている場所で「途中欠場」などはできないでしょうし…。

 

いずれにしても、白鵬関は本当にすごいですね。彼が稀勢の里関の復活場所に全勝優勝したのはまさに奇遇というほかありませんが、「白鵬一強時代」は、まだまだ終わっていないと思います。白鵬の取り口に「横綱として」疑問を挟む声は多いようですが、その前に彼の準備の凄さというか、人一倍の努力を認めてあげないとフェアじゃないと思いますね。