このタイミングで記事化したのは、勿論何らかのきっかけがあったからではあるが、内容は前々から薄々感づいていたことである。
 
まだまだ不十分とはいえ、心が日進月歩で健康になっている私が20年程前の日本におけるネット社会黎明期の頃と、一番変わった点を挙げる。
 
1.人がヒステリックに右に行く時代と感じるなら、自分はセンターでとどまり、左にまでは行くな。なぜならば、左にまで行ってしまえば自分とて相手と同じ穴の狢だからだ。
 
2.平凡は「幸せ」。もっと言えば、少し「負けている」くらいが一番「幸せ」。
分かりやすい例でいえば、「ふたりっ子」の香子のような劣等生を跳ね返し、どんどん洗練されて(でも、自分自身の家族を持つという夢は果たせなかった)超一流に上り詰めたヒロインより、麗子のような一見典型的な優等生からの転落人生に見えても、愛すべき家族を持っているヒロインのほうが最終的には「幸せ」。
↑:もっとも、香子の場合はもともとが愛に溢れている人なので、あれでも悪い方向にはいかないとは思いますが、それは香子だからであり、生き方としては非常に難易度は高いと言える。
 
3.自称が「ただのおっさん、おばさんお姉さん」に一目置かれながら(ここ重要)好かれなさい。最終的にあなたがこの社会から受け取る「愛」、あなたがこの社会に振りまくことのできる「愛」の総量は、ともにそこで測れる。
 
この投稿で一番言いたいのは、勿論この3番である。ただ「何故自称がただのおっさん、お姉さん」なのか、そして「一目置かれながら好かれろ」なのかは、1.2.がある方が分かりやすいと思ったので、併記しておいた。

アメーバ大喜利で私より全然面白いネタを投稿していたにも関わらず、それほどの共感を得られなかった多くの10代、20代の方は、胸に手を置いて考えて欲しい。あなたになくて私にあった「モノ」とは何か?それが精神を病まずに(まぁ、まだまだ私はひどく痛んでいたところから回復している過程ではあるが)、この世の中を生き抜くための「コツ」である、と言っても過言ではない。残念ながら「お笑いの実力」≠「人としての実力」なのは、言うまでもない。

その一方で、改めていうまでもなく「中身」は無くてはならない。「中身」もなくただ人と人を繋ぐだけでは、何かを生産しているとはとても言い難く、アメーバ大喜利のような(実は)シビアな実力社会(くどいようだが、そこで問われているのは「お笑いの実力」ではない)では生き残れない。

大喜利上位者こぞってみんなが大喜利ロスになる理由も、これでやっと分かった気がする。
だって、私にとってあんなに答えのない、攻略するのが難しい「ゲーム」を私が知ったのは、中1で覚えた麻雀以来だもん。