今晩、ふとしたことで以前(といってもだいぶ前)袂を分かったある人のブログをまとめて読んでみた。
その人のブログは知的好奇心を満たす内容に富んでいて、しかもかつて自分が確かにいた世界とその近辺に関する(もっと突っ込んだ内容の)話が中心に書かれているのだが、どうもこれにまるで頭が、そして何より心が反応しない。といっても苦手意識から拒絶しているとかいうのではなく、心が全く触れない(関心がない)のである。
 
その他にも、アメーバニュースの極東関係の話題に対する記事とコメントをいくつか読んでみた。記事、コメ欄ともに相変わらず韓国や中国嫌いの方が多く、中には本論と関係のないストレス解消のための罵詈雑言としか思えない物もあった。しかし、以前と違いそれに対する嫌悪感はあまり走らず、心は冷めていた。SNSにおけるその手の暴言に慣れたというのもあるが、正直誰が何を言っていようが全然頭に入らず、心の琴線にも触れず、どうでもよかった。
 
その根本的理由を探っているうちに、なるほど、これが今の私の無気力と仕事探しの困難の本当の理由か、と納得したのである。ちなみに、今の私は自認では「うつ状態」である。しかし、昨日こそ更新を休んだもののこれまでの大喜利にせよ、それ以降のハイペースなブログの更新は、私が「本当のうつ状態」ではあり得ないことを如実に物語っている。つまり「うつ」なのは「気分」であり、実際にはいつ暴走してもおかしくない衝動になんとかブレーキをかけてバランスを保っているために余計に「うつ気分」になるという、何とも「躁うつ者」らしい、一番つらい状態なのである。
 
というのも、私はいまだに自分の家族のような親い人にさえ「昔の自分」の延長線上でしかその可能性を考えてもらえない。未だに、お堅く在宅で一人でできるような内容の仕事を、資格でも取ってするのが私には最適だと思っているような人もいる(特に、ロジカルな頭が勝っていて問題解決法を探すことにしか興味の向かない「7」系の人からは、そういう話しか聞けないので、本当にうんざりである。)。正直言って、それは今の私にはなんの可能性の広がりも感じさせず、苦痛でしかない。
今の私にとっても「昔の自分」の知性はある程度役には立っていると思うのだが、その内なる動機であったり、表現の仕方であったりは既に変わっている。なのに、そこを分かってもらえない。
 
昔の私は、政治経済に対する関心も人一倍強い方であった。今でも基礎となる理論や、知識は人より多く持っているはずだ(ただ、右派勢力のいう「正しい(新しい)歴史」が本当に正しいのかどうかは、私には検証するすべもなくその気もないので、好き嫌いはなく単純に「分からない」。)。
前垢では多少はニュースにも顔を出していて、そこではできるだけ中立的な立場を取ることで参加者の「憎悪の連鎖」を断ち切ろうという試みを私なりにしていたこともあった。だがそれは、非常に大きなエネルギーのいることでもある。だから、今はそこから離れるようにしている。今は私なりにたまに意見をブログに書くことはしても、こういうネタで誰かと議論したり交流したりする気は一切ない。さらに、その手の話がやたら好きな人間は思想傾向に関わらず厄介なのが多く、正直相手にもしたくないので、ペタすら受け付けなくなった。
 
前垢の頃(具体的には2013~14年頃)より、私を取り囲む状況は当然のごとく「待ったなし」の度を増している。言葉は悪いが、私には学問や政治経済で「遊んで」いる暇などない。私にとって、それは決して今や「好きなこと」でも「得意分野」でもない。だから、そのエネルギーがあれば、少しでも見てくれの良い健康体に近づけることや、彼女を愛する力、そして日用の糧を得るためのパワーに変えたい。
 
…その意味でも、今の私を本当に理解しているのはここ数年の私しか知らない方々、つまりアメーバで出逢った方々と、あ♡さん、そして今の主治医と今の私をよく知る何人かのセラピストさんだけである。困ったときにすべてを相談可能な肝心要の家族が、なまじ私の前半生を知っているだけに、今の私にとっては一番頓珍漢な反応を示してくれる。なんとも皮肉なことである。
 
確かにこの年齢になってから、前半生25年の(その多くは「私の本性」に気づかなかった親が望んだといっていい)人生設計をまるで否定したような方向に進むのも困難ではある。
それでも、それを私の心は望んでいる。なかなかそれを分かってもらえず、悶々とする日々を送っている。
 
もっと私自身が「自分の本性」に早く気づき、早い段階で上手に反発できていたら、違う人生になっていたのだろうか…。
 
陰鬱な記事で申し訳ない。